「三丁目の夕日」の舞台には年収1000万円以上の世帯はほとんどない

高見順は1907年、永井荷風の叔父で福井県知事だった父親と、おそらくは女中をしていた母親の間に生まれ、父親の転任とともに東京市麻布区竹屋町(現在はかつての麻布区東町とともに港区南麻布1丁目となっている)に移り住んだ。

もちろん、父親と同居したわけではない。父親は同じ麻布区ながら、北へ1キロほど離れた高台の飯倉町、現在の麻布台2丁目に住んでいた。

順が住んだのはみすぼらしい長屋で、父親からわずかな援助を受けながら裁縫の内職で生計を立てる母親、そして祖母といっしょだった。順はこの町を「所謂山の手の屋敷町」と書くのだが、およそ山の手という感じではない。順によると、同級生には商売人の子どもが多く、のちには町工場が増えて、職工の子どもたちが小学校に入ってくるようになった(『わが胸の底のここには』)。

付近を歩いてみると、細い路地が東西南北に走り、いまでも工場や、元は工場だったと思われる建物が多い。ここから西へ歩くと、突き当たりは断崖絶壁で、左右に回り込むと急坂がある。ここを上ると、低層建築の間に寺が点在する閑静な住宅地となり、さらに北へ進むと大使館や麻布中学・高校などが建ち並ぶ。

順が住んでいたあたりの標高は約6メートルだが、坂の向こうは20メートルを超える。順は小学校を卒業したあと府立第一中学校(現・都立日比谷高等学校)に入学するが、同級生にはこのあたりに住む華族の子どもがいた。順は豊かな家庭の子どもが多いなかで、自分の家が貧乏であることを隠すのに苦労している。

もと来た道を戻り、反対に東へと進めば、港区芝。映画『三丁目の夕日』(山崎貴監督、2005年)の舞台ともなった下町で、年収1000万円以上世帯比率推定値は、場所によってはほとんどゼロに近く、職業分布をみると自営業者とマニュアル職が多い。田町駅近くの飲食店街を含む地域でもある。

高級住宅街と下町を分ける“標高差”

標高差の大きい港区には、このように坂の上と下で大きな落差を感じさせる地域が多い。

図表2に記したジニ係数をみると、港区のジニ係数は0.379で、新宿区、千代田区、渋谷区に次いで4番目に大きい。この背景のひとつが、こうした複雑な地形にある。

全体としては山の手といっていい港区だが、そのなかに山の手と下町がある。港区はこのように、山の手のなかの山の手と下町、そして埋め立て地からなるエリアなのであり、このことが大きな格差の背景にあるといってよい。