息子の徹治さんは病院に「休薬」を申し出た

家族は病院での治療だけでは心もとないと感じ、厚子さんに都心の免疫療法や温熱療法などを勧め、その治療も平行して行われることになった。

当時は、周囲が「本当にがんなんだろうか」と疑うほど厚子さんは元気だったという。さまざまな治療に通うのに、厚子さん自ら車を運転するぐらいなのである。

ところが新しい抗がん剤を試しはじめると、副作用で体調が悪化していった。

「髪の毛は抜けるし、上の血圧が200ぐらいまであがるし、全身も湿疹だらけで……。食欲も出なくなっていったんです」と、嘉規さん。「大病院の医者は女房の顔を見ずに、パソコンばっかり見ておったから」と怒る。

徹治さんは病院に「休薬」を申し出て、セカンドオピニオン(担当医以外に「第2の意見」を求めること)のために都心の病院を訪ねた。

「当時は僕も東京にいたし、兄も都会に住んでいましたから、実家のある田舎の病院で受ける治療に不安がありました。都会みたいにいろんな病院を選べるわけじゃないですから。もちろん選べないからこそ、かえってここで頑張ろうと、決断しやすい面もあるかもしれません。でも、あの時は簡単に割り切れませんでした。東京なら病院を選べるのにと思って、『僕の家に来て治療を受けないか』と提案したこともあります。でも、母は『うん』とは言わなかった」

厚子さんにしてみれば、夫を一人で残すことに不安があったのだろう。

抗がん剤を変更すると、たちまち元気になった

セカンドオピニオンでは、現在の治療方針でも問題ないといわれた。地元の病院での抗がん剤治療が再開された。

「ただし副作用の強かった抗がん剤は変えてもらいました。たとえ抗がん剤が効いたとしても、ひどい副作用に悩まされるようでは、生活の質が維持できません。そこは本人だけでなく家族が判断し、医師に伝えていく必要があるのではないでしょうか。実際に母は抗がん剤を変更してたちまち元気になったんです」(徹治さん)

70歳で亡くなった柿谷厚子さん。この写真が遺影にも使われている。
70歳で亡くなった柿谷厚子さん。この写真が遺影にも使われている。

その後も抗がん剤の種類を変えながら、それなりに効果が続いていった。

4年後の2016年、腫瘍マーカーの値が下がらなくなり、食欲が急激に低下した。

柿谷家にとって、いつもケタケタと笑う厚子さんは、太陽のような存在だ。夫の嘉規さんも、次男の徹治さんも、言葉の端々に「絶対に失いたくなかった」という思いがにじむ。「がん末期にラドン温泉がいい」と聞けば、家族で湯治に出かけた。「がんに効くという水」があれば、片道4時間かけて徹治さんが何十リットルもの水をくみにいった。

しかし——2016年8月、ついに抗がん剤が効かなくなった。