遊びの世界に夢中になっていく篤二

幼くして母を失い、父と離れて暮らさなくてはいけない篤二は、やがて趣味や遊びの世界に夢中になっていく。

当時はまだ珍しかった自転車を乗り回したり、乗馬に明け暮れたりしているから、何不自由なく金が使える、かなり過保護な少年時代をおくったようだ。金持ちで栄一の息子ということで、多くの仲間たちも篤二のところに近寄ってきた。だが、篤二にとっては、楽しい暮らしとはいえなかったのではなかろうか。

「右を向いても左をみても息ぐるしくなるような人間関係しか用意されていなかった。傍からみれば篤二はたしかに恵まれすぎるほどの結構な身分だったが、謹厳実直な義兄夫婦の人一倍強い責任感ゆえの過剰な保護干渉と、宗家の跡とりに対する周囲からの期待感は、成長とともに篤二に重苦しくのしかかっていった」

暗い部屋でストレスを感じ、頭に手をやる男性
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佐野眞一氏も、著書『渋沢家三代』(文春新書)で、篤二の気持ちをそう推測している。確かに渋沢家は、まじめといえば聞こえがいいが、堅苦しい家であった。栄一は毎月1回、同族会を開いたが、そのときの様子を栄一の四男の秀雄が次のように語っている。

「正月の同族会は飛鳥山の家で開くのを例とした。広間の正面にすわった父を取りまいて、穂積、阪谷、明石の義兄たちが堅苦しい社会問題を話し合う。姉たちは姉たちで、若い私たちには興味のない話題に専念する。やがて父が改まった調子で『家訓』を朗読しながら註釈を加える。当時としてはもっともずくめな常識倫理だけに、窮屈でつまらなくてやりきれなかった」(渋沢秀雄著『父 渋沢栄一』実業之日本社文庫)

まるでその情景が思い浮かぶようである。

事業そっちのけで義太夫や小唄に没頭する

篤二が嫌気がさしても仕方ないだろう。いずれにせよ、篤二が熊本の第五高等中学校に在学中、大問題を起こしたのである。明治25年(1892)のことである。はっきりとしたことはわからないが、どうやら学校に行かずに遊所に入り浸って女性と遊びまくっていたらしく、結局、熊本から強制的に連れ戻され、血洗島村での謹慎処分となったのである。

ほとぼりがさめた明治28年(1895)、篤二は公家出身の橋本敦子と結婚する。新郎は22歳、新婦は16歳だった。もちろん親族が決めた結婚だった。篤二は明治30年(1897)に栄一が設立した澁沢倉庫部(現・澁澤倉庫株式会社)の部長(支配人)となり、明治42年(1909)に澁澤倉庫株式会社に改組されたさい、取締役会長に就任した。

しかし篤二が力を注いだのは、事業経営ではなく、趣味の世界であった。先の佐野眞一氏は「篤二の趣味は、義太夫、常磐津、清元、小唄、謡曲、写真、記録映画、乗馬、日本画、ハンティング、犬の飼育と、きわめて多岐にわたっていた。そのいずれもが玄人はだしだった」(『渋沢家三代』)という。

渋沢秀雄も長兄・篤二のことを「常識円満で社交的な一面、義太夫が上手で素人離れしていた。諸事ゆきとどいている上に、ユーモラスでイキな人だった」(『父 渋沢栄一』)と回想している。