遺族の気持ちを思うと本当にやるせない
9月3日付の東京新聞の社説は「車載コンピューターなどに記録されたデータに基づけば、こんな事故時の光景が浮かび上がる」と書いた後、池袋の暴走事故の判決についてこう言及する。
「客観証拠は事故原因を雄弁に語っていよう。被告は『アクセルとブレーキを踏み間違えていない』と無罪主張だったが、判決は退け、実刑としたのは当然である」
さらに東京社説は「事故時の光景」についてこう描写している。
「60キロで走行中の被告の車は前方車両に接近したため、進路変更を繰り返した。安定制御システムが作動し警告音が鳴った。縁石に接触したが、84キロに加速。自転車に衝突し、そのまま96キロまで加速。赤信号を無視し、母子の乗った自転車をはねた」
「アクセルの開いた角度は125度。最大限に踏み込まれていた」
こうした証拠があるにもかかわらず、飯塚被告は無罪を主張しつづけている。遺族の気持ちを思うと本当にやるせない。
交通事故は社説のテーマには相応しくないのか
東京社説は「事故を未然に防ぐ対応策も必要だ」と指摘し、「内閣府によれば、75歳以上で操作を誤った死亡事故は28%に上る。ハンドル操作か、ブレーキとアクセルの踏み間違いだ」と解説してこう訴える。
「安全運転サポート車は既にある。ペダル踏み間違い時の加速抑制装置などがある車だが、道交法改正でサポート車に限定した免許も創設される。過信は禁物だが、今後の技術進歩にも期待したい」
法律の改正も技術の利用も目的は交通事故をなくすことにある。少しでも悲惨な事故を減らすためにあらゆる方法を講じるべきである。
沙鴎一歩が見渡した限りでは、池袋の暴走事故の判決を社説で扱った全国紙は産経新聞と日経新聞の2紙だけ。昨年10月8日の初公判については、毎日新聞の1紙だけだった。
なぜ新聞社説はこの事故をテーマに選ばないのだろう。交通事故は社説のテーマには相応しくないのだろうか。そんなはずはない。読者の関心度の高いニュースこそ、取り上げて論じるべきではないだろうか。