ディズニー版・実写版は「ありのままの姿」で愛される

これに対して、同じ伝承をディズニーがアニメ化した1991年版と、エマ・ワトソン主演で実写化した2017年版では、傲慢な王子が一夜の宿を求めた醜い老婆(魔女)を邪険に扱ったことで野獣に変えられる。

魔女は王子に一輪の薔薇を渡し、最後の花びらが落ちるまでに真実の愛を見つけなければ、永遠に獣として生きることになると告げた。

この新しい設定によって、野獣は「ありのままの姿」でベルから愛されなくてはならなくなった。ベルもまたたんに美しいだけでなく、田舎町では本が好きな変わり者と見なされ、「自分らしく」生きられる場所がどこかにあるはずだと夢見ている。

城で暮らすようになった最初は野獣を嫌っていたベルだが、オオカミに襲われたとき生命を救われたことでその純真なこころに触れ、二人だけの舞踏会で美しく踊るまでになる。

外見(虚飾)ではなく内面(真実)こそが大事で、誰もが「いまのままの自分」で愛し、愛されるべきなのだ。

私は「リベラル」を政治イデオロギーではなく、「すべてのひとが“自分らしく”生きられる社会の実現を目指すこと」と定義しているが、ディズニー版はこの価値観を取り入れたことで世界中で大ヒットしたのだろう(実写版では、舞踏会で黒人の女性歌手や踊り手が登場するなど、「多様性」が強く意識されている)。

野獣はその醜い姿のままベルの愛を勝ち得たことで、王子の姿に戻り世界を変えるのだ。

これに対して『竜とそばかすの姫』では、野獣(竜)だけでなくベルも仮想空間〈U〉のアバター(As)でしかない。そして物語のクライマックスで、野獣ではなくベルが、ありのままの姿(そばかすの女子高生)をひとびとに晒すことで「世界」を変える。

このようにして細田作品では、「美女と野獣」がリベラルな方向にさらにもう一段階押し進められている。ハリウッドに見られるように海外の映画界はますますリベラル化しているので、この物語も高く評価されるのではないだろうか。

世界50億人が利用する仮想空間は「もうひとつの現実」

『竜とそばかすの姫』で興味深いのは、世界50億人が利用している〈U〉という仮想空間だ。

デジタルシティ
写真=iStock.com/islan13
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〈U〉はVoicesという5人の賢者によって創造された究極の仮想世界で、イヤホンや腕時計、眼鏡などの専用デバイスから生体情報を読み取り、最適な分身(As)が自動生成される。

そのためアバターは、本人の現実世界の一部を反映している。歌が好きだった母を目の前で亡くしてから、すずは歌うことができなくなるが、仮想空間では歌姫として「再生」されるのだ。

映画の冒頭で、ひとびとを仮想空間へと誘うプロモーションが流される。

「〈U〉はもうひとつの現実。Asはもうひとりのあなた。ここにはすべてがあります」
「現実はやり直せない。でも〈U〉ならやり直せる。さあ、もうひとりのあなたを生きよう。さあ、新しい人生を始めよう。さあ、世界を変えよう――」

リベラル化した社会では、人種、民族、宗教、性別、性的志向などの「集団の属性」ではなく、一人ひとりを個別に(ありのままの姿で)評価することが求められる。

これにSNSのような新しいテクノロジーが加わると個人ごとに評判が可視化され、ごく一部の者が途方もない評判を獲得することになる。

これがロングテール(ベキ分布)で、Twitterでは、どこまでも延びるテール(尾)の端に、オバマ元大統領やジャスティン・ビーバー、ケイティ・ペリー、リアーナのように1億人を超えるフォロワーをもつセレブリティがいる一方で、数十人から数百人のフォロワーしかいない大多数がショートヘッドを形成している。

平和な時代が続くと資産もロングテールの分布になり、これが「経済格差」と呼ばれるが、評判はお金よりもさらにベキ分布になりやすく、「評判格差」はさらに苛烈なものになる。

なぜなら、お金は(徴税のような国家の“暴力”で)再分配できても、評判を再分配することはできないから。

50億人が利用する〈U〉で圧倒的な人気があった歌姫のペギースーは、ベルにその座を奪われたことで嫉妬するが、それ以外にいるはずの膨大な数の歌い手は話題にすらならない。

ネットワークが無限大に拡がっていく仮想空間では、ロングテールの端の位置を占めることはきわめて難しい(というより、ほとんど不可能だ)。