文藝春秋に掲載された立花隆の「田中角栄研究 その金脈と人脈」と児玉隆也の『淋しき越山会の女王』で追い詰められて辞任し、その後、ロッキード社から賄賂をもらった受託収賄罪容疑で逮捕・起訴された。

竹下登や小沢一郎などの側近が田中のもとを離れた。脳梗塞で倒れ、失意のうちに亡くなった。

だが巧みな話術と人情味が人を引き寄せ、最近でも「田中角栄ならこの国難をどう乗り切るか」という特集を組む週刊誌がある。

もし田中が今生きていても、彼流の金権政治などできるはずもないが、不思議な魅力を持った首相であったことは間違いない。

戦後のワースト首相のベスト8にも入るが、好きな首相のナンバー1も田中になるかもしれない。

総理になっていたら…と思わせる唯一の人物

福田赳夫は首相になるのが遅すぎたのだろう、これといって記憶に残る業績はない。大平正芳が病気のため、首相在職中に亡くなったのは残念だった。

中曽根康弘が首相になった時、「角影内閣」と揶揄やゆされた。田中の操り人形という意味だが、若い頃から首相を目指していただけに安定感のある政権運営のように見えた。

堪能な英語を駆使して、レーガン大統領とのロンヤス関係は話題になった。危惧されたのは彼のタカ派的体質だったが、靖国神社に公式参拝したのは最初の年だけで、中国、韓国関係にも配慮する安全運転を心がけた。

中曽根のウルトラタカ派的体質や、後の竹下登内閣で発覚するリクルート事件を水面下で抑え込んでいたといわれるのが後藤田正晴官房長官である。

警察官僚出身だが、野中広務元幹事長と同じように戦争を体験した者として、二度とあのような戦争は起こしてはならないという姿勢を貫いた。

日本国憲法については、「人類が将来向かっていくべき理想を掲げている」とその意義を認めている。また日米安保条約を平和友好条約に変換すべきとの考えも持っていたといわれ、「過去60年間、日本は独立したといいながら、実際は半保護国の状態にあるのではないか」と語ったこともあった。

宮澤喜一首相が辞任した後、次を後藤田にという声が自民党内で高まったが、本人は固辞した。あのとき彼が総理になっていたら、後の日本は変わっていたのではないか。そう思わせる唯一の政治家である。

日本の労働運動を解体させた中曽根康弘

中曽根でいえば、国鉄解体・民営化は、日本の労働運動の中で特筆されるべき「大罪」だと考える。

その経緯については牧久の『昭和解体 国鉄分割・民営化30年目の真実』(講談社)に詳しいが、牧はこう書いている。

「百五十年に及ぶ『日本国有鉄道』の解体は、戦後政治の一翼を担った国労(編集部注=国鉄労働組合)、総評(同=日本労働組合総評議会)、社会党の崩壊へとつながり、戦後日本の政治体制であった『五五年体制』そのものが崩れ去ったのである」