その原動力となったのが「一票否決制」の導入だ。

地方官僚の政治業績を判断する際、経済成長など他の分野で高得点をあげていたとしても、計画生育の実施で規定を満たせなかった場合には失格とみなされるというものだ。計画生育がきわめて優先度の高い政策とされていたことの表れだが、不妊手術の規定実施数を満たすために、若い女性を拉致してまで手術したという話もあった。

この恐怖の政策は当初、国際社会からは人口抑制策を果断に実施する優等生として歓迎されていた。一人っ子政策の制度立ち上げを担った銭信忠(チエン・シンジョン)は1983年、国連人口賞を受賞している。

「一人っ子政策」の前から出生率は大きく低下していた

国家の一大事業として始まった一人っ子政策だが、その効果はどれほどのものだったのだろうか。中国政府は2013年に「一人っ子政策により4億人以上もの出産抑制を実現し、人口の過剰な増加による資源と環境に与える圧力を大きく軽減した」との公式見解を表明している。

しかしながら、データを見ると異なる実像が浮かび上がる。出生率のピークは1960年代半ばであり、強圧的な一人っ子政策が始まる1979年までに出生率はすでに大きく低下していた。

中国の合計特殊出生率の推移
出典=世界銀行
中国の合計特殊出生率の推移

経済成長や医療の充実、教育の高度化などの条件が重なれば少子化社会へと移行するのは世界共通のトレンドだ。たとえ一人っ子政策が導入されなかったとしても、中国が少子化へと向かったことは間違いない。

むしろ将来確実に起きる、急激な人口減が問題だったはずだ。国の人口維持に必要な出生率は2.1とされるが、中国は1990年代初頭に割り込んでいる。世界的にも人口増から少子高齢化へと懸念する対象は代わった。

本来ならば、中国も柔軟に政策を変化させるべきだったが、前述のとおり2013年の一部緩和まで規制は維持された。

約1億2700万円の罰金を払った映画監督も

その理由を突き詰めると、結局のところ、トップの意向が強く反映される独裁国家においても、一度動き始めた国家の重要政策を変化させることは難しいことに尽きる。

特に一人っ子政策については中国全土の津々浦々にまで、担当者が置かれる巨大な官僚組織が作り上げられた。人口抑制政策の撤廃は彼らの仕事を失わせてしまう。官僚組織は自分たちのポストを守るために激しく抵抗する。

また、一人っ子政策違反の罰金である社会扶養費は平均所得の3~6倍を徴収するもので、高額所得者には応分の追加負担が求められる。たとえば、中国を代表する映画監督の張芸謀(チャン・イーモウ)は2013年、3人の子どもがいることが発覚。749万元(約1億2700万円)の社会扶養費を支払った。

こうした社会扶養費は農村など基層自治体では主要な財政収入源となっていた。罰金徴収額のノルマを定める事例も多かった。2人目を生んでもらってはいけないという制度だが、ルールを破って罰金を支払う人がいないと基層自治体が維持できないという本末転倒の状況となっていたわけだ。