私は京都大学で憲法や法律を学んだ。最初に戸惑ったのは、日本の裁判所の「統治行為論」という立場である。「自衛隊は憲法9条に違反しているか」というような国家統治の基本にかかわる高度な政治問題について、裁判所は司法判断を避けるべきであるという考え方だ。

法学部生なら誰しも最初に戸惑うこの問題について、ある教授が宴席で披露してくれた解説がとても印象的だった。おおむね以下のような内容である。

「裁判所は政治問題を決着させる場所ではありません。それは国会の役割です。裁判所は憲法が最も重視している基本的人権を守る場所なのです。政治的に対立している問題に立ち入ることは極力避けます。しかし、一人ひとりの基本的人権が侵害される個別の問題には積極的に介入し、その人の基本的人権を救済しなければなりません。裁判所は一つひとつの具体的な事案を詳細に検証して、目の前にいるひとりの人を救うための場所なのです」

剣と天秤を持つ正義の女神
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「目の前にいるひとりの人間を救うための場所」

若き学生の私は半分わかった気がしたが、半分もやもやした気分が残った。だが、それに続く教授の「仮定の話」で、目が開く思いがした。

「例えば、いま目の前に、離婚訴訟を争っている夫婦がいると仮定しましょう。夫には高い地位と十分な財産があります。妻にはそれらがありません。ところが、離婚の直接的原因はどうも妻にあります。過去の判例に照らせば夫が勝訴します。その結果、妻が路頭に迷うことは間違いありません。さて、あなたが裁判官ならどうしますか? 夫を勝たせますか? 優秀で誠実な裁判官なら躊躇します。夫の勝訴が公正な社会をつくるとは思えないからです。いま目の前にいる妻を救う方法がないかを真剣に考えます。あらゆる判例やあらゆる法令を探して、妻を勝訴させる合理的な判決を導き出せないかを懸命に探ります。

さて、それでも妻を勝たせる法理が見つからない場合、あなたが裁判官ならどうしますか? 泣く泣く夫を勝たせますか? たいがいの裁判官は心にわだかまりを抱えながらも夫を勝たせるかもしれません。しかし、ほんとうに優秀で誠実で勇気のある裁判官なら、その不公正な結論を受け入れることができません。そのときはじめて、妻を勝たせるために「新しい判例」に一歩踏み出すのです。このようにして、ひとりの人間の具体的な事案が判例を塗り替え、世の中を変えていくのです」

私は感動した。裁判所とは何か、司法とは何か。この教授が語った「仮定の話」がすべてを言い尽くしていると思った。これは正規の授業では講義しにくい「司法の真髄」であると思った。やはり宴席でしか伝えられないものはあるのだろう。

裁判所は「いま目の前にいるひとりの人間を救うための場所」なのだ。私は法学部のいかなる授業からも、いかなる法律の教科書からも、この宴席における教授の「仮定の話」以上の感銘を受けたことはない。