かつてマスコミなどでは、生徒たちが学期中、無遅刻無欠席を目標に掲げ、それをクラス全員の努力で成し遂げたという美談が取り上げられることがあった。高校時代にそれを体験した学生に話を聞いたところ、学期が終わるころには教室内がピリピリした空気になり、絶対に遅刻できないというプレッシャーに潰されそうだったという。もしかすると少々体調が悪くても、無理をして登校した生徒がいたかもしれない。
問題となった運動会の組体操も…
こんな事例もある。中学校の組体操は、生徒が一致団結して目標を成し遂げ、教師や保護者も一緒に感動を味わえる種目として運動会の花形になっている。そのため危険性がたびたび指摘されても続ける学校が多い。
ある学校では運動会の組体操で地面に倒れた生徒が、治る見込みのない傷を負ってしまった。それでも「感動の場をなくしたくない」という教師や保護者の声に加え、これからも継続してほしいという負傷した生徒の意向を踏まえ、翌年もまた継続することになった。継続を望む周囲の声の中で、負傷した生徒が「中止してほしい」といえるだろうか?
ここに取り上げた例ではいずれも、いったん行事や活動が始められたら容易にそれを止められないし、見直しの声を上げることさえ困難なことを物語っている。つまり共同体を構成する個々のメンバーの総意を超えた力が背後に働いていることをうかがわせる。それこそがイデオロギーとしての共同体主義なのである。
同調圧力の強い組織の3つの特徴
共同体主義は、同調圧力をエスカレートさせるだけではない。やがて共同体の論理が独り歩きし、別の形でもメンバーにさらなる圧力をかけるようになる。
第一に、メンバーは単に共同体の一員として役割を果たせばよいというわけではなく、共同体に対する絶対的な忠誠や帰依が求められる。そのため、外部の組織や集団への帰属は制限される。
多くの企業が社員の兼業や副業を認めようとしないのは、認めると無際限無定量の忠誠・貢献が得られなくなる、すなわち相対的な忠誠、限定された貢献しか期待できなくなるからである。また日本の公務員には「職務に専念する義務」が定められているが、そこにも共同体主義の片鱗がうかがえる。
なぜなら「専念する義務」とは実質的な貢献ではなく、精神や姿勢を求めるものだからである。いずれにせよ共同体を維持・強化するうえで絶対的な忠誠こそ最も重要な規範だといえる。