政府や首長からの「お願い」に潜む真意

制度によって参加を強制するなら当然、勤務時間内に行わせるか、超過勤務手当を支払わなければならない。半ば日常的に行われているサービス残業や休暇の取り残しにしても、損得抜きで仕事をこなすのが当然といった空気が背景にある。いずれも会社が共同体だという前提が存在するから、受け入れられるのである。

新型コロナウィルスへの対応にしても、政府は当初から飲食店などには営業禁止などの強制措置をとらず、強制力のない休業要請という手段で臨んだ。そのため休業補償という形ではなく、協力金の支払いですませられた。また欧米に比べて感染者も死亡者も少ないにもかかわらず、地方の知事が「うちの県には来ないでほしい」とか、「帰省しないでほしい」「不要不急の外出は慎んで」と県内外の人に呼びかけた。

法律や条例ならとてもそこまで要求することはできない。さらに「自粛してください」ではなく、「自粛しましょう」と対等な立場で呼びかけたのも、同じ共同体のメンバーとして利害を共有する前提に立とうとするからである。

「衣」の下には「鎧」がしっかり隠されている

しかし、ここでつけ加えておかなければならないことがある。前述したように、かりに圧力が通用しなかった場合、「衣」の下から「鎧」が顔を出す。その「鎧」すなわち「自主的」な強制力を担保するものはしっかりと用意されている。ただ共同体意識にうったえているだけではないのだ。

小集団活動の場合、活動に参加しなければ当然ながら人事評価に反映される。とくに日本企業では態度や意欲といった情意面がかなりのウェイトを占める。たとえ仕事の能力が高く、業績をあげていても勤勉性や協調性、忠誠心などに問題があると昇進や昇格が見送られる可能性がある。あるいは望まぬ職場へ左遷されるかもしれない。長期雇用の中では、それが社員にとって大きな不利益につながる。

したがって建前上は「自主的」であっても、実質的には全員参加になるのである。

また、かつて日本では官公庁による行政指導というあいまいな手段が頻繁に用いられたが、指導に従わなければ何らかの不利益を被るのではないかという恐れがあった。その後ろ盾があるからこそ、為政者はあえて強硬な姿勢で臨まなくてもすむのである。