なぜ日本人は怒りを忘れてしまったのか

無為無策を体全体で表している菅首相に、国民の我慢も限界に来ているはずだが、世論調査をすると政権支持率が40%前後あることが、私には理解不能である。

たしかに「他よりよさそうだ」という曖昧な理由が圧倒的だが、これに対する答えはすでに出ている。「安倍晋三でも長きにわたって首相が務められたのだから、誰でもできる」というものだ。

その政権を引き継いだのだから、菅政権が“無様”な醜態をさらすのは当然のことだ。だが、その政権に対して、陰に隠れてSNSで批判する人間は多いが、姿をさらして大声で怒りをぶつける人間が少ないと思うのは、私だけではないはずだ。

なぜ、日本人の多くが政治に対する怒りを忘れてしまったのだろう。

元自民党のプリンスといわれた中村喜四郎衆院議員(立憲民主党)は、「安倍政権の最大の功績は国民に政治を諦めさせたことだ」といった。

卓見だと思うが、それに加えて私は、日本人が大切なものを見失ってしまったからだと考えている。それは日本国憲法の前文に高らかに掲げられた「国民主権」である。

雨の日に横断歩道を渡る人々
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1960年以降、政治家や役人たちによって、憲法の前文にある「日本国民は正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民と協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」という文言を忘れるよう教育されてきたからである。

結果、「国民とはオレのことかと日本人」となってしまったのである。

この国を一番悪くしているのは誰か

もう一度前文を読み返し、主権は我にありと自覚したら、今の政治の在り方に怒りが湧いてこないはずはない。

五輪開催を国民の健康よりも優先するこの国の政治の在り方に、“真っ当”な怒りをぶつけようではないか。

国民の自由を制限しておいて、PCR検査もおざなりにし、医者や看護師、コロナ専用の病床を増やすことも十全にしない政治に怒るべきである。

「ワクチン敗戦」といわれるほど後手後手になったワクチン接種が遅れていることに怒るべきである。

菅首相をはじめ、ウソばかりついて国民のことなど考えない政治屋や、利権に血道を上げる電通をはじめとする政権癒着業者、IOCのほうばかり向いて現実を見ようとしない五輪組織委の面々、その片棒を担いで恥だとも思わない大新聞、テレビに対して怒るべきだ。

この程度の国民だから、この程度の政治、この程度のメディアしか、この国には存在しないのだ。