働きづらさの原因は「邪悪な経営者」だけではない

労働環境・働きやすさの問題を議論する際、やはり世間の多くの人は「ブラック企業」「やりがい搾取」「パワハラ上司」などといった、わかりやすい「社会悪」にその原因をフォーカスする。もちろん、そうした議論自体はたしかに一理ある。

しかしながら、この国で末端の従業員レベルの人びとが味わっている「働きづらさ」「生きづらさ」は、邪悪な経営者や劣悪な労働条件によってすべての説明が完結するのではなく、市民社会の「善意」によってもたらされているという側面も大きい。それにもかかわらず、メディアで示されるのはもっぱら前者であり、後者の影響はあまりに過小評価されている。

「お前は、会社のため、ひいては社会のために、サボらず誠心誠意尽くしているか」と、善かれと思って監視する人びとの「善意」は、労働者をボロ雑巾のように酷使するブラック企業と同じくらいに、この国の平均的な労働者の視界と世界を暗く淀んだものに変えていく。

社会全体を息苦しくする「善意」のリレー

せっせと仕事をしている最中に、不運にも「善意」をあてられた人は、労働者ではなくいち市民として過ごしているときに「会社のため、ひいては社会のために十分尽くしていない人間」を見つけた瞬間、暗い感情が沸々と湧きあがってくるようになる。そして、自分がだれかから「善意」によって押し付けられた「感情の負債」をどうにかして清算しようと、街で働く人にやたら厳しくあたるようになってしまうのだ。

こちらを指さす男性
写真=iStock.com/NickS
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自分がだれかから押し付けられた「善意」のリレーバトンをつなぐため、今度は自分が「善意の人」になって、不届き者を糾そうとする。無理やり「善意」バトンを受け取らされた人は、さらにまた別のある日、休日にひとりの市民として街を歩くとき、だれかにその「善意」を押し付けることで清算を目論む……。

「善意」の美しいリレーが続いた結果、社会全体に「楽して仕事してそうな奴」「仕事をサボってそうな奴」「仕事上で自分がした苦労をしないでもよさそうな立ち位置の奴」に対する「正義の怒り」が向けられるようになっていく。

レジ係はイスに座れず、バスや鉄道の乗務員は水分補給をコソコソ行い、物流・運送業者はロゴやカラーをわざわざ隠した車で配送する——そのような光景は、かならずしもなんらかの悪意や害意の介在によってそうなっているのではない。市民社会の一人ひとりが持つ「善意」によって実現している。