全ての遺骨収集は非現実的だからこそ、考えるべきこと

「今回の件については、なんとしても止めたいんです。これは基地に賛成とか反対とか以前の、人道上の問題だと思ってます」

「若者緊急ステートメント」の冒頭で引用した具志堅氏の言葉だ。辺野古新基地建設への立場にかかわらず、「人として」考えるべき問題が土砂採取問題にはらまれているのだと、私たち呼び掛け人は考えている。それには4つの論点がある。

第一に、この問題は日本の戦後処理の全般的な不徹底さを突き付ける。国家が起こした戦争に巻き込まれて犠牲になった戦没者の遺骨を、新たな戦争を生み出す基地の「建材」として用いていいのか。この問題は、「戦後処理と開発をいかに両立させるか?」(例えば東京でも「東京大空襲の犠牲者の遺骨が混じった土を軽々に利用していいのか」という問題を議論すべきかもしれない)という、日本国民全員が考えるべき問題にもつながってくる。

むろん戦後75年が経過し、遺骨自体の風化が進んだ今、全戦没者の遺骨収集は非現実的だ。しかし、だからこそ、戦争犠牲者をどのように慰霊し、弔うべきなのか、遺族感情を中心に据えた議論が必要であるはずだ。国が一方的に「収骨できないから諦めろ」と言わんばかりの処遇をとることは、見逃してはいけない問題だと思う。

2017年3月24日、沖縄県糸満市の平和祈念公園内に設置されている慰霊碑
写真=iStock.com/Sean Pavone
※写真はイメージです

「戦没者の骨が混じり血や肉が染み込んだ土地」

ましてや今回、遺骨を材料に造られようとしているのは、新たな戦争を生み出しうる基地である。沖縄を捨て石にする地上戦で肉親を犠牲にされ、戦後も基地負担を押しつけられた沖縄の遺族が、現在の土砂採取計画に憤るのは当然ではないだろうか。そんな遺族の感情への想像力に欠ける政府の戦後処理のあり方は、もっと強く批判されなければならないように思う。

第二に、この問題は日本の戦争体験継承のあり方にも関わる問題である。埋め立てに使われうる土砂には、沖縄住民・日本兵のみならず、米兵や朝鮮人などさまざまな方々の遺骨が混在するとみられている。その背景には、先の戦争のもつ諸問題が凝縮されている。

具志堅氏は沖縄を「戦没者の骨が混じり血や肉が染み込んだ土地」と表現する。ここで具志堅氏が言おうとしているのは、戦後75年たっても、日常生活と沖縄戦の記憶とがいまだ不可分だということではないだろうか。90歳を超えた沖縄戦体験者がわざわざハンスト現場に足を運び、今回の土砂採取計画を批判したのも、沖縄戦の記憶の強さを象徴していると思う。

そのような土地の土砂を基地建設に用いることは、日本がそれほど重い記憶を持つ人々の存在を無視し、戦争体験を忘却しようとするような国だと国内外に示すことにならないだろうか。