他人に書かせることで「自分」という壁を超えられる

自分(つまり布施)は、ああしなさい、こうしなさい、と言われると、逆にやる気をなくすひねくれた性格の人間で、しかし「なんでも自由にやればいい」と言われると俄然、やる気が出る。人によっては、自由にしていいと言われると怠けてしまうかもしれないし、指揮・アドバイスされないと何をしたらいいのかわからなくなるかもしれない。

実際、東大の研究室でも、大学院生で「養老先生は指導というものをしない」と不満を述べている人もいた。優秀な東大生は、「こうしろ」と言われれば完璧にやり終えるが、自分で考えろ、自分で決めろ、と言われると途方に暮れるタイプも少なくない。

ともあれ、自分にとって、養老先生はノーサインの人で、そういう環境というのは、実はなかなか得られないのではないかとも思った。誰でも、何かひとこと言いたくなる。そこを完全なノーサインの状態のままにするのは、かえって難しいことかもしれない。

ともあれ、養老先生はノーサインの人で、こういう言い方は変なのだが、じつは養老先生は、自分に対してもノーサインなのではないか、と編集者の人への対応などを見ていると思うことがある。

そして、そういうノーサインのあり方こそが、『バカの壁』が大成功した理由だったのではないか。『「自分」の壁』という本も、ご自身で書いてもいいのだが、他人の頭を通すとわかりやすい、というのも、単に噛み砕いた話になるということではなく、そこに「自分」という壁を超える、自分という壁を消す、養老先生だけにできる芸当があったのかもしれないと考えたりもしたものだった。

人生の意味は自分だけで完結するものではない

「自分が何かを実現する場は外部にしか存在しない。より噛み砕いていえば、人生の意味は自分だけで完結するものではなく、常に周囲の人、社会との関係から生まれる」

(『バカの壁』、109ページ)

布施英利『養老孟司入門』(ちくま新書)
布施英利『養老孟司入門』(ちくま新書)

という『バカの壁』のなかの言葉を読んでも、この「人生の意味は自分だけで完結するものではな」いという言葉を吐く背後の生き様には、そういう「生きる技術」のようなものを感じる。

「他人のことがわからなくて、生きられるわけがない。社会というのは共通性の上に成り立っている。人がいろんなことをして、自分だけ違うことをして、通るわけがない。当たり前の話です。」(同前、70ページ)

「とすれば、日常生活において、意味を見出せる場はまさに共同体でしかない。」(同前、110ページ)

『バカの壁』の制作で、編集者に、そういう言葉を発した養老先生は、その言葉でこだわった「共同体」の中で、大きな成功をおさめたのだ。

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