文章を“視覚的”に伝える

養老は、この本を作るにあたって、文章を書かなかったのだ。政治家や実業家が、仕事の忙しさから、ライターに口述して本を作る、というやり方は、よくみられることだ。

バカの壁』も、簡単にいえば、そうやって作られた。それは養老が多忙だから(たしかに多忙ではあるが)とか、文章を書くのが面倒だから、という理由からだけではない。養老自身が「実験」と呼ぶように、ここには、本を書くということへの、養老なりの新しい試みともいえる姿勢があったのだ。

養老孟司は名文家だ。明快に、独自の思考を伝える文章力を持っている。だから、他人つまりライターに書いてもらうより、養老自身が文章を書いた方が、より養老らしい味が出る。しかし、そういう本は、ずいぶん書いてきた。書き下ろしの本はもちろんだし、雑誌に書いた短文を集めた本でも、養老のウイットに富んだ文章は、われわれを堪能させてくれた。

だから、このあたりで、一つの「実験」をしようと、養老は考えた(あるいはそのような編集部の提案を受け入れた)。

その実験とは、話した内容を編集者に文章にまとめてもらうことだった。長年の付き合いのあるベテラン編集者がその提案をしてきた。その際、文章のまとめ役として連れてきたのが写真週刊誌の編集に長く携わってきた編集者である。

文書を書くビジネスマン
写真=iStock.com/Bignai
※写真はイメージです

「バカの壁」は口癖だった

写真週刊誌というのは、文章でなく写真で伝える、というビジュアルな言語の手法を磨き上げたものだ。養老先生はのちに、自らやってきた解剖図に説明を加える作業と、写真に文章を添え、膨大な数の読者に訴える写真週刊誌の記事の作り方は似ていたと言っていた。「実験」とはその技術に賭けてみよう、というものだった。

『バカの壁』の原稿ができた頃、鎌倉の養老先生のご自宅に遊びに行ったことがあった。ちょうど新潮社の編集部の人が二人、やって来ていて、新しい本のゲラを届けに打ち合わせをするという。そのゲラを横目で見ながら、タイトルのところに「バカの壁」とあるのを目にした。

養老先生は、10年以上前から「バカの壁」という言葉を口にしていた。

研究室の机の上に、馬の骨と鹿の骨を並べて、「これが馬鹿の骨だ」と冗談を口にしたりもしていた。自分はそのとき、「あのバカの壁をタイトルにした本ができるのですね」と言っただけで、それ以上のことは言わなかった。思わなかった。

見る人が見たら、そのゲラに「オーラ」を感じたかもしれない。しかし不覚にも、自分は、「また養老先生の新しい本が出るんだ」と思っただけだった。見る目がない。

それから本が発売になって1週間ほど経って、新潮社の編集者の人から、「『バカの壁』がとんでもない売れ方をしている。新潮社でも、これまでなかったことです!」とメールが来た。発売1週間で、そんな状態だった。読者も、その本の存在に何かを感じたのだろう。ベストセラーというのは、そんな感じで世に出ていくものなのかと知った。『バカの壁』は、それから400万部を超えて、日本の戦後を代表するミリオンセラーとなった。