打たれてもいい、負けさえしなければ
長くリリーバーという役割を務めていると、当然、救援に失敗することもある。僕の感覚でいうと、相手と斬り合って、自分が斬られてしまうケースである。
そういうとき、僕はつくづく投手とは因果な商売だと思った。たとえ自分が斬られてしまっても、その後も試合は続くのである。
しかも、もちろん試合放棄などできないし、マウンド上の投手は監督が審判に交代を告げないかぎり、マウンドから降りることは許されない。試合を終わらせたければ、斬られても立ち上がり、再び刀を手に取って斬り合いを挑み、相手を倒さなければならないのである。
僕がマウンドに上がるときは、「斬られさえしなければいい」という感覚だった。「負けなければいい」ということである。
理想とする展開は「無形」
たとえば、2点をリードした9回裏、ツーアウトながら一、二塁に走者がいて、相手打線の3番打者を打席に迎えるとする。
もし、僕が3番打者を苦手にしていて、4番打者であっても抑える自信があれば、あえて四球を与えることに躊躇はない。
僕がマウンドに上がるときは、いつも満塁の場面まで想定していた。いくら出塁を許しても、ホームベースさえ踏ませなければいい。リリーバーの仕事とは、打たれないように抑えることではなく、負けないことなのである。
意外に思われるかもしれないが、僕はどういう局面においても三者三振に抑えることを理想と考えていたわけではなかった。
僕の野球観に理想とする展開があるとすれば、それはおそらく「無形」である。めざすべきはリスクが少しでも低い展開であって、それはそのときどきの状況によって異なる。必ずしも、三振を奪いにいくことだけが最上の策ではない。