2020年シーズンを最後に、「火の玉ストレート」を武器にプロ野球界に鮮烈な記憶と記録を残した藤川球児氏が現役を引退。阪神でのクローザーとしての活躍、メジャーでの挫折、そして、心ない声に奮起してのNPBでの復活……。引退した今、仲間たちやファンに初めて明かす「真実」とは──。(第2回/全2回)

*本稿は、藤川球児『火の玉ストレート』(日本実業出版社)の一部を再編集したものです。

藤川引退試合/ラストピッチングをする藤川
写真=時事通信フォト
引退セレモニーで、阪神の矢野燿大監督(手前)に向けラストピッチングをする藤川球児投手(甲子園=2020年11月10日)

最後にもう一度150キロのストレートを…

じつは、僕にはひそかなたくらみがあった。引退試合で150キロのストレートを投げることである。

プロ野球選手としての人生を俯瞰ふかんしたとき、僕にはどこかの時点で技巧派に転じるという選択肢もあった。球速は130キロ台後半でも、投球術を工夫することでのらりくらりと打者を翻弄ほんろうするようなスタイルに転じていれば、選手寿命はもっと延びていたと思う。技術的には、十分に可能だった。

だが、老獪ろうかいな投球術で相手を完璧に抑えることができたとしても、それはもう藤川球児ではない。藤川球児という投手は、どこまでも「火の玉ストレート」で勝負すべきだった。

そのスタイルのまま、僕はユニフォームを脱ぎたかった。最後のマウンドで150キロのストレートを投げることができれば、スタイルを貫いたことになる。難しいが、決して不可能な球速ではない、と思った。

引退表明後のどこかいつもと違う甲子園球場で

2020年9月1日に行なった引退会見のあと、僕は大きな反響を感じながら、少しずつ体を動かしていた。

肩と肘が元に戻ることはないが、できるかぎり早く1軍に戻って、ファンのみなさんに最後のストレートを見届けてもらいたい。焦りそうになる気持ちを抑え、僕は根気強くコンディションの回復を待った。ようやく1軍に戻れたのは、10月半ばだった。

10月20日、甲子園で行なわれた対広島戦で、引退表明後、僕ははじめてのマウンドに立った。

気のせいか、それまでの甲子園とは、どことなく雰囲気が違っていたように感じた。ほとんどの方が客席からスマホを掲げて僕に向けている様子を見て、僕は引退が迫っていることをじわじわと実感した。

その2日後、再び甲子園のマウンドに立つと、その後は名古屋、横浜と転戦した。ナゴヤドームでも横浜スタジアムでも、思いがけず、僕の引退セレモニーを用意してくれていた。

敵地でのこうした厚遇は、あまり例がないに違いない。選手が引退を表明すると、もはや敵も味方もなくなってしまうことがよくわかった。