*本稿は、藤川球児『火の玉ストレート』(日本実業出版社)の一部を再編集したものです。
最後にもう一度150キロのストレートを…
じつは、僕にはひそかな企みがあった。引退試合で150キロのストレートを投げることである。
プロ野球選手としての人生を俯瞰したとき、僕にはどこかの時点で技巧派に転じるという選択肢もあった。球速は130キロ台後半でも、投球術を工夫することでのらりくらりと打者を翻弄するようなスタイルに転じていれば、選手寿命はもっと延びていたと思う。技術的には、十分に可能だった。
だが、老獪な投球術で相手を完璧に抑えることができたとしても、それはもう藤川球児ではない。藤川球児という投手は、どこまでも「火の玉ストレート」で勝負すべきだった。
そのスタイルのまま、僕はユニフォームを脱ぎたかった。最後のマウンドで150キロのストレートを投げることができれば、スタイルを貫いたことになる。難しいが、決して不可能な球速ではない、と思った。
引退表明後のどこかいつもと違う甲子園球場で
2020年9月1日に行なった引退会見のあと、僕は大きな反響を感じながら、少しずつ体を動かしていた。
肩と肘が元に戻ることはないが、できるかぎり早く1軍に戻って、ファンのみなさんに最後のストレートを見届けてもらいたい。焦りそうになる気持ちを抑え、僕は根気強くコンディションの回復を待った。ようやく1軍に戻れたのは、10月半ばだった。
10月20日、甲子園で行なわれた対広島戦で、引退表明後、僕ははじめてのマウンドに立った。
気のせいか、それまでの甲子園とは、どことなく雰囲気が違っていたように感じた。ほとんどの方が客席からスマホを掲げて僕に向けている様子を見て、僕は引退が迫っていることをじわじわと実感した。
その2日後、再び甲子園のマウンドに立つと、その後は名古屋、横浜と転戦した。ナゴヤドームでも横浜スタジアムでも、思いがけず、僕の引退セレモニーを用意してくれていた。
敵地でのこうした厚遇は、あまり例がないに違いない。選手が引退を表明すると、もはや敵も味方もなくなってしまうことがよくわかった。