最後の機会
ちょうど10年前の9月30日、甲子園。本拠地での最終戦の相手は横浜だった。試合後には、矢野さんの引退セレモニーが予定されていた。
そのシーズンの阪神は投打ともに好調で、最終盤まで巨人、中日と優勝を争っていた。数日前には、9試合を残していた2位の阪神に優勝マジック8が点灯するという混戦だった。
その日、3回裏に1点を先取した阪神は、4回表に追いつかれたものの、4回裏と5回裏に1点ずつ追加して、横浜を引き離した。
2点リードのまま迎えた9回表、僕はマウンドに向かった。登場曲はいつものLINDBERGではなく、FUNKY MONKEY BABYSの曲だった。そのシーズンの矢野さんが打席に向かう際のテーマ曲だった。
引退セレモニーを試合後に控えていた矢野さんは、もはや満身創痍といった状態だった。このシーズンも故障が長引き、結局、数試合に出場しただけだった。
だが、甲子園のファンのみなさんに、矢野さんに現役最後の姿を見届けてもらわなければならない。9回表に登板した僕が2つアウトを取ったら、城島健司さんに代わって矢野さんがマスクをかぶる予定になっていた。
白球の会話
それまで修羅場は何度もくぐってきたはずなのに、その日、僕のボールは荒れていた。先頭打者を四球で歩かせ、ふたり目の打者にも四球を与えて、ノーアウト一、二塁になった。
そして、4番の村田修一さんが打席に立ち、僕が投げた高めのストレートはスタンドに運ばれた。
その瞬間、矢野さんの出場機会は失われた。そして、9回裏の攻撃は無得点に終わり、逆転負けを喫した阪神の自力優勝も消えた。
「球児が打たれたのなら、しかたない」
引退セレモニーの際、出場機会を失わせてしまったことを謝ると、矢野さんはそう言って僕をなぐさめてくれた。だが、それ以来、僕がこの日の出来事を忘れることはなかった。
僕の引退セレモニーでのラストピッチングは、絶対に矢野さんがキャッチャーでなければならなかった。それは、僕のわがままである。
だが、球団も、矢野さんも、僕の最後のわがままを快く受け入れてくれた。おかげで、僕は何も思い残すことなくユニフォームを脱ぐことができた。
僕の現役最後の1球は高く浮いて、矢野さんは立ち上がって受けた。その日のために用意されていたのは、矢野さんが現役最後に使っていたミットだった。