表現の自由とのバランスは判例の積み重ねで
一連の「ネット中傷」対策は、表現の自由とのバランスをどのようにとるかという難問と表裏一体だ。
プロバイダ責任制限法改正の議論の中で「新ルールは適切に運用されなければ、表現行為の萎縮が生じかねない」との指摘があった。
投稿者を特定しやすくする方策は、被害者に朗報となることは間違いないが、不都合なことを書かれた企業が発信者情報の開示を求めるスラップ訴訟のように、正当な批判や内部告発をためらわせかねない危険もはらむ。
また、単純な厳罰化は、投稿者の表現の自由を一方的に制約しかねず、投稿を削除された利用者が異議を申し立てる仕組みを用意するなどの配慮は欠かせない。
規制と人権のバランスの議論は行きつ戻りつするが、実のところ、誹謗中傷の基準を確立するためには、判例を積み重ねる以外に策はないのかもしれない。
だが、表現の自由に気を配るあまり、被害者の救済が滞るようなことがあったら、本末転倒だろう。
放置できない「匿名の悪意」
コロナ禍のような大規模な災いに見舞われた社会は、不安や不満を「いけにえ」に求める傾向が知られている。つまり「スケープゴート」だ。ストレスの元凶であるコロナウイルスに怒りをぶつけられないため、無関係の対象を「身代わり」にしようとするのである。こういう場合に標的にするのは、反撃されにくい弱者だ。
悪質な投稿をする人は、ほんの一握りといわれるが、被害を受けた人にしてみれば、数件であっても心に深い傷を負うには十分すぎる量となる。
ネットの書き込みは、表現がエスカレートしやすくなり、中傷が新たな中傷を生む悪循環に陥りやすい。さらに始末が悪いのは、誹謗中傷を書き込む投稿者の多くが、その動機に「正義感」を持ち出していることだ。だが、この場合の「正義感」は、社会的正義ではなく、投稿者の価値観における正義でしかない。
コロナ禍の自粛生活の長期化でSNSの利用時間が増え、「匿名の悪意」に身を包んだハンターたちが、非常事態宣言とともに、またぞろネット上を徘徊する。今なお、誹謗中傷の書き込みがあふれているのが実情だ。
だが、「ネット中傷」は、時に人の命を奪い、自らも罪に問われる。断じて放置するわけにはいかない。