現在のように、1回目の緊急事態宣言から半年以上経過しているにもかかわらず、医療キャパシティーを拡充するための取り組みが本格化されておらず、また資金面での各種支援も中途半端のままというどっちつかずの態度を決め込んでいるようでは、経済優先派も人命優先派も「国家の機能不全を織り込み済みで議論」しなければならず、それこそ「コロナ死」VS.「コロナ経済死」のような極論へと矮小化されてしまいます。
要は、経済優先派と人命優先派の不毛な対立の基底にあるのは、国家がやれることを何もやっていない、失策を認めず改善もしないという悪夢のループなのです。それらの副産物を直視することなく、選択肢が限られたゲームの盤面を前に、双方があら探しに血眼になる批判の応酬に突き進みがちになるのです。
しかも、根幹にあるのは、コロナ否認とコロナフォビアと同じく、それぞれの死生観、価値観の先鋭化ですので、対立が解消される余地はほぼありません。国家のでたらめなリスク管理によって生じた災厄の数々が、経済優先派と人命優先派の対立をより苛烈にする触媒となるのです。
表面上の装いをイデオロギーと結び付ける傾向が一部で加速
最後がニューノーマルと反ニューノーマルです。
ニューノーマルの生活様式に特に疑問を持たずに適応している、あるいは自分の主義や信条とは別に世間の目や他者への気遣いから迎合する人々と、まったく迎合しない人々との対立です。仮に「コロナはただの風邪」と思っていても周囲に迷惑を掛けないよう、取りあえずニューノーマルに従っている人は多いはずです。
しかし、頑としてニューノーマルを拒否する、さらにはアンチの正しさを力説する人々も少なからずいます。反ニューノーマルは、コロナ否認と重なっている場合が多く、また経済優先派とも親和性があります。一方で、「ウレタンマスク警察」「不織布マスク警察」のようなニューノーマル過激派は、コロナフォビアを多少なりとも含んでおり、人命優先派に近い傾向があります。とはいえ、必ずしも分かりやすく色分けができるものではありません。
しかし、この表面上の装いをイデオロギーと結び付ける傾向が一部で加速しているのも事実です。マスクをしない人=「コロナはただの風邪」と考え、健康弱者への思いやりがなく、適者生存的な立ち位置にいる非常識な人々とのレッテルが貼られ、個々の事情はほとんど考慮されることなく、白眼視されるケースが生じていることがそれを表しています。