多面性があるはずのコロナの一面だけを見ている
ウイルス側の視点から言い換えれば、宿主であるヒトが一枚岩にならずそれぞれの自己の立場を正当化して、社会的な合意が取りづらい状況こそが自らが生き残るための活路となります。そして、このヒトの心理を見透かした“戦略的なデザイン”は功を奏しました。
恐るべきことにコロナ否認もコロナフォビアも、コロナという多面性があるキマイラ的な存在(キマイラとは、頭はライオン、胴はヤギ、尾はヘビという姿をした架空の怪物)の一面に立脚しており、「着眼点によって現実が変化すること」に鈍感という点で共通しています。否認のエビデンスも、恐怖のエビデンスも事欠かないからです。
つまり、その解釈の固定化――否認または恐怖――によって何かを意識する過程をすっ飛ばして重要なものを切り捨てたり、特定の国や人種や階層などへの無関心が促される懸念があり、世界全体から俯瞰して眺めた場合に、最も回避すべき愚策を後押ししているかもしれないのです。
国家のでたらめなリスク管理が経済優先派と人命優先派の溝を深める
次に、経済優先派と人命優先派です。
欧米諸国に比べて相対的に少ない日本における死亡者や重症者の割合などを踏まえ、感染症対策をしっかりと実施した上で、医療キャパシティーを拡充しながら経済を回すことを求める人々と、高齢者だけでなく基礎疾患を持つ者のリスクを重視し、国が資金面での各種支援を担保して、強制力のあるロックダウン(外出制限)などを行い、人の流れを止めることを求める人々の対立です。
ただし、ここでは「国家が正常に機能していない」という事実に注意しなければならないでしょう。