殺処分にもプロパガンダ的な性質があった

そもそも、日本の動物園で実施された動物の殺処分でさえ、プロパガンダ的な性質があった。動物たちの悲劇的な最期をみせつけることで、国民に覚悟を求めるのである。京都市動物園は、「空爆のため、オリの破壊による猛獣類の脱出を恐れた当局が、命令によって彼等を処分させたというのが表向きの理由だが[……]市民が馴れ親しんだ動物を処分することへのほこ先を、敵国にたいする憎しみに置きかえて倍加させ、戦闘意欲、勤労意欲の高揚をはかる意図が背景に隠されていたともされている」と書いている(Itoh 2010,Lutz 1991,恩賜上野動物園 1982、京都市 1984、大阪市天王寺動物園 1985)。

1943年、1カ月以内の「猛獣処分」が命じられた

溝井裕一『動物園・その歴史と冒険』(中公新書ラクレ)
溝井裕一『動物園・その歴史と冒険』(中公新書ラクレ)

くわしくとりあげるべきは、やはり『かわいそうなぞう』の舞台となった上野動物園の事例だろう。対米英戦争に突入する直前のこと、軍に入った古賀忠道にかわって、園長代理をしていた福田三郎は、東部軍司令部獣医部に要請されて「動物園非常処置要綱」を出した。

これは、万が一東京が空襲にさらされるようになったら、動物をどう処分するかを書いたものだ。クマ、ヒョウ、ライオン、ゾウ、ヘビなど「危険動物」とされた個体は、爆撃の被害が近くにおよんだときにはじめて、毒殺ないし銃殺することとしていた。なお、一部動物を間引きしたり、草食動物を殺してエサにすることなどは、すでにおこなわれていた。

事態が急展開したのは、1943年に、戦争遂行を目的として東京市が東京都となり、大達茂雄が長官になってからである。大達は動物園関係者をよびだして、1カ月以内に「猛獣処分」するよう命令した。しかも、市民に不安を与えるからというので、音の出る銃殺は除外された。