「消費・購買」から「贈与・応援」へ
この「祖先から贈与された感覚」を失ってしまった人のことを、20世紀前半に活躍したスペインの哲学者、オルテガは「慢心した坊ちゃん=大衆」と名づけました。
オルテガによれば「大衆」には二つの心理的特性があります。それは「生活の便宜への無制限な欲求」と「生活の便宜を可能にした過去の努力、他者の努力への忘恩」です。つまり、大衆とは「被贈与」の感覚、「思いがけず贈与されてしまった」ことへの後ろめたさを感じなくなってしまった人たちのことなのです。
一方で、今日の日本に目を転ずれば、さまざまに享受している社会や他者からの貢献を「当然の権利」のように平然と受け取っておきながら、いざ不足や不服を感じるとすぐに激昂して声を荒げる大人が後を立ちません。このような人たちは、自分が過去・現在・未来に生きる人々との関係性のなかにしか自分の生があり得ないのだということを忘れてしまっているのです。無限の成長を求める高度圧力社会が生み出した鬼っ子というしかありません。
これからやってくる高原社会では労働と創造が一体化していくことになります。そのような社会においてはまた同時に、これまでの「消費」や「購買」は、より「贈与」や「応援」に近い活動になっていくことでしょう。そのような社会にあって「被贈与の感覚」を守り、育んでいくことは非常に重要です。
「応援したい相手」にお金を払おう
しかし、このような指摘に対して「贈与が大事だということはわかったけれども、では具体的にどのようにすれば良いのか?」と思う人もいるかもしれません。なに、難しく考える必要はありません。大事なことは一点だけ、それはできるだけ「応援したい相手にお金を払う」ということを心がけるということです。
いま、私たちの社会には素晴らしい文化や工芸がたくさん残っていますね。しかし、こういった素晴らしい遺産は、ただ放っておいたら自然と残った、というわけではありません。実態はむしろ真逆というべきで、こういった文化遺産は、「これを後世に残していかなければいけない」という意思をもった先人たちによる継続的な支援と努力があってはじめて、いまの私たちにも豊かさを与えてくれているのです。
これは以前、銅や錻力の茶筒で有名な開化堂の六代目当主である八木隆裕さんから伺った話なのですが、高度経済成長期の時期にあらゆるものが機械化され、「手作りなんて古い」という価値観が支配的になった際、大変な手間隙をかけて作製される伝統的な茶筒には強い逆風が吹き、経営的に非常に苦しい状況に陥りました。
その際に京都のお茶屋さんたちから「お前のとこは余計なことは考えず、ひたすら良いものを作っておれ、ワシのところが買うから」といって買い続けてくれたおかげで開化堂は存続できた、というのですね。このお話は大変わかりやすく「応援経済が社会の文化的豊かさを育む」ということを示してくれていると思います。