今でいう名プロデューサーだった

明治から大正にかけての時期は、閉鎖的な経営で力を蓄えていった財閥も、一方で渋沢さんに代表される非財閥の開かれた経営をするグループも、ともに発展しました。そういう意味で、渋沢さんは、名プロデューサーだったと言えるでしょう。

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』というアメリカ映画がありますが、みなさん勝手にスピルバーグが監督だとイメージしていると思います。しかし、スピルバーグは製作総指揮というプロデューサーでした。監督はロバート・ゼメキスで、彼は後に『フォレスト・ガンプ/一期一会』でアカデミー作品賞・監督賞を受賞。スピルバーグは目利きだったのです。渋沢さんも同様だと思います。適材適所を見抜く力を持っていた渋沢さん、相手の力量を見抜く力、眼力があったということです。

経営を離れ、「民間外交」に乗り出す

1909(明治42)年、69歳になった渋沢さんは、多くの企業や団体の役員を辞任します。辞任はしますが、その活動が衰えることはありませんでした。世界情勢の動向を気にかけ、特に民間外交では老骨に鞭を打って働きました。

すでに1902(明治35)年、渋沢さんは初の民間経済視察団の団長として渡米し、ルーズベルト大統領と会見していました。その後、1909(明治42)年にタフト大統領、1915(大正4)年にウイルソン大統領、1921(大正10)年にハーディング大統領に会見しています。当時のアメリカのメディアでは、「日本のGrand Old Man(長老)」と呼ばれ、親しまれていました。

第一次世界大戦後、アメリカで日本移民排斥運動などが起こり、日米関係が悪化していることに渋沢さんは危機感を覚えます。1927(昭和2)年には日本国際児童親善会を設立し、日本の人形とアメリカの青い目の人形の交換をするなどの親善活動を行い、民間外交の草の根運動にも尽くしました。

青空にはためく星条旗と日章旗
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欧米とだけでなく、渋沢さんはアジアとの民間外交にも力を入れました。1903(明治36)年、彼は生涯の友・大隈重信とともに、インドとの友好促進のため、日印協会を創設しています。1914(大正3)年には日中の経済界の提携を目指して、中国を訪問しました。「アジアとの協調なくして日本の繁栄はない」という大きな流れを見通していたのです。