現実問題としてこれは到底、採り得ない選択肢になるだろう。それにとどまらず、日銀に国債を引き受けてもらう前提で、見合いの税収もない分まで歳出を拡大するような財政運営自体が不可能になるだろう。これが、中央銀行による“事実上の財政ファイナンス”に手を染め、財政再建にも金融政策の正常化にまともに取り組もうとしなかった国家と中央銀行が最終的に行き着く姿だ。
この国は、実際にそうした事態に陥って、財政運営と金融政策運営が完全に行き詰まるまで、今、行っている政策運営、すなわち現世代が本来は今、甘受して然るべき“痛み”を無計画に先送りする政策運営の真の問題点に気付くことはできないのだろうか。それとも、分かっていても皆で目をそらし続けるのだろうか。
財政運営の手段としての通貨
通貨には金銭的価値の①計算手段、②支払い手段、③保蔵手段として用いられるほかに、「財政運営の手段」、というもう一つの顔がある。私たち市民は、自分達の社会(国)を支えるため、円で税を納める。それを、国民の総意に基づく方法で分配して社会(国)を運営する。それが財政運営だ。
①その時々の経済や社会の変化に応じて社会(国)全体でしっかりと議論し、負担(納税)と給付(分配)の枠組みを適切に構築していくことができれば、また、②実質購買力を減殺させる高インフレも一種の課税に相当するため、中央銀行が適切な金融政策運営を行って自国通貨価値を安定させることができれば、安定的な財政運営を長年にわたり続けることができるのである。
それができないと財政運営はいずれ行き詰まることになる。そうなると、第2次世界大戦後の日本やドイツの如く、預金封鎖や通貨交換を行い、積もりに積もった借金の帳尻合わせに出るのが大抵の政府の常套手段だ。
国民の側もそれをよくわかっているから、自分の国の財政運営が本当に危ないと思えば、預金の引き出しや国外への資金逃避が加速する。そういう事態に陥ったとき、当初は中央銀行が政策金利をできる限り引き上げて、資金流出を止めようとするだろう。しかし、それでも資金流出を止められなかった事例は歴史的にも数多くある。そうした国が採り得る手段はただ一つ、国際的な「資本移動規制」をかけることだ。