葛藤しつつも船員削減に奮闘
若いときにたとえ地味な部署にいても、挑戦を続け、頭角を現せば、いつの間にか出世の階段を上っていることがある。でも、そこで気を緩めれば、いとも簡単に足元は崩れてしまう。40代とは、そんな分かれ目のころだ。かといって、ただ気を引き締めれば済む、というわけでもない。必ず、試練が来る。そのときに、どう過ごすかだ。
芦田さんの場合、他人が「できない」と言うと、「じゃあ、やってみるか」という道を選んだ。それが、「会社が潰れるかもしれない」とまで思わせた大試練を、しのがせる。
87年6月、44歳で、定期船部門の花形ポストである欧州一課長から、企画部の調査役へと転じた。地味な肩書だが、実は、これまた、歴代エリートたちが通過した要職。業界大手が輪番で務める日本船主協会の会長に、自社のトップが就任したときの「秘書役」が仕事だ。
だが、在任2年、苦渋に満ちた日々が続く。当時、「プラザ合意」後の円高急進で、日本人船員の給与水準は国際的にみて高額となり、海運会社は軒並み競争力を失っていた。着任した企画部では、部を挙げて、船員の大幅な削減策を進めていた。
船員には、航海士や機関士などの上級船員と、「部員」と呼ぶ一般船員があった。「部員」は、その3分の1に希望退職に応じてもらい、給与水準が安いフィリピン人へ切り替える。上級船員には各種の受け皿会社をつくり、移籍してもらう。総勢2300人のうち、4割にあたる900人余りを減らす計画だった。
船主協会会長となった社長に付いて霞が関や永田町を回る傍ら、その計画の遂行も手伝うことになる。希望退職の募集は50代が中心。多くが郊外にマイホームを持ち、住宅ローンの返済もほぼ終えていた。当時は55歳で年金の受給が始まったから、給与の5年分を退職金に上乗せした。「部員」でも、総額が3500万円になる。だが、船員たちは「陸に上がる」ことを嫌がった。彼らを管理する海務部も、強引な「肩たたき」は渋った。企画部は、そんな海務部の背中を押すのが役割。でも、上司は部下たちに「どこまで進んだ?」と聞くだけで、動かない。
「じゃあ、やってみるか」。そう思って、他社の退職状況を確認したうえで、海務部へ出向き、「よそと比べ、うちは遅れている。もっと、進めて下さい」と促した。ところが、強烈な反撃を食らう。海務部の部長も副部長も「そんなに、言わないでくれ。オレは、体を張ってやっている。最後は、オレも辞める気持ちでやっている。横からプレッシャーをかけないでくれ」と語気を強めた。
がーん、と頭を殴られたような気がした。もともと、自分にも抵抗感はあった。船員ばかりに犠牲を強いて、陸上の社員にはほとんど手をつけない。それで、いいのか。でも、会社の実態を徹底的に分析し、先行きの姿を探り直してみても、答えは変わらない。やはり、現状のままでは生き残れない。
2年目、調査役から企画部副部長に昇格し、船員削減の先頭に立つ。「こんなに辞めてもらうのだから、最後は自分も辞めなくてはいけないか?」――葛藤が続き、何度か、会社を辞めた夢をみる。うなされ、がばっ、と起きると、「ああ、夢か。俺はまだ辞めていないんだ」とつぶやいた。
毎月、取締役会で、早期退職を決めた船員たちが挨拶した。感無量の声を聞き、胸が詰まる。「もう二度と、こんなことにはさせない」。その思いが、のちのナビックスラインとの合併推進や、積極的な新造船の立案へとつながった。
いったん定期船部門へ戻り、96年6月に取締役企画部長に選任された。挨拶で「経営者は、教育者でなければいけない」と言い切った。
長い間、社長たちをみていて「何で直接、自分の言葉で社員たちに説明しないのか」と思ってきた。それでは、会社は、一つの方向へ向かって結集しない。前号で紹介した山本五十六元帥の「やってみせ、言って聞かせて、させてみて」の精神のように、上司というのは、とにかく部下に教えてあげなくてはいけない。