ジョブズはなぜそれほどまでに弘文に惹かれたのか
ジョブズと禅に関わる本の翻訳を任されたことをきっかけとして、著者は、弘文に関心を抱き、何度もくじけそうになりながら、日本、アメリカ、ヨーロッパで関係者へのインタビューを行った。
著者は、この取材の間にたった1人の兄を亡くしている。
「そんな私が『この人になら』と思ったのが弘文だった。もうこの世にはいない弘文だが、かなうことなら会って洗いざらいの心を話し、今の苦しみから逃れたい。私は、そう願った」
しかし、なぜ弘文なのか。
「私的にはね、あまりにもきちっとした人だと自分ではついていかれない。泥中の蓮っていうのはこういう方のためにある言葉でしょうね。人を助けるために、いてもたってもいられない。やっぱり弘文が崩れたからこそ、みんながまたついていった」
それでは、ジョブズはなぜそれほどまでに弘文に惹かれたのか。そこにもこの「泥中の蓮」「慈悲心」があった。ジョブズは生後間もなく父母から捨てられ養子に出されるという、まさに泥の池に生を受けた人間だった。そんなジョブズだからこそ「泥中の蓮」を求めたのではないか。このコロナ禍にあって、様々に理不尽な事態が人を襲っている。まさに人々は泥中でもがいている。そのようなときに人が求めるのはどんな宗教者なのか。乙川弘文がいれば、その「慈悲心」はどこに向かったであろうか。
柳田由紀子
1963年、東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、新潮社に入社。「03」「SINRA」「芸術新潮」などの編集に携わる。スタンフォード大学ほかでジャーナリズムを学ぶ。現在、ロサンゼルス郊外に在住。
1963年、東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、新潮社に入社。「03」「SINRA」「芸術新潮」などの編集に携わる。スタンフォード大学ほかでジャーナリズムを学ぶ。現在、ロサンゼルス郊外に在住。
(写真提供=柳田由紀子)