このように、いっさいは空であり、すべてが変化し続けているというのが仏教の基本思想なのです。そうすると、世の中も自分自身も昨日と同じではないわけですから、自分はこういう人間だと決めつけることや、あの人とはうまくいかないと気に病むことは、いかに意味がないかがわかるでしょう。

開眼寺 住職 柴田文啓氏
開眼寺 住職 柴田文啓氏

木村花さんもものごとを流動的にとらえることができたなら、もう少し楽に生きられたかもしれません。

すべてが流動的だからと周囲から何かいわれるたびに意見を変えていたら、うまくいかないでしょう。迎合ばかりでは、振り回され疲弊するだけです。

自分の考えを持ちながら、そこにしがみついて頑固おやじのようになるのではなく、他人の言葉にも耳を傾ける。そして、変えるべきだと思ったときにはこだわりなく変えればいいのです。

そういう生き方を心がけていると、年齢とともにだんだんと自分の型のようなものができてきます。そうなると何をいわれても「ああ、そういう考え方もあるのか」と平然と受け流すことができるようになります。

にっちもさっちもいかない局面に追い込まれたら、状況が変わるのを待つ、あるいは自分が積極的に変わる。これはビジネスパーソンにも有効です。

私が縁あって仏門に入ったのが65歳。それまではみなさんと同じようにビジネスの世界で、額に汗して働く日々を送っていたので、ビジネスパーソンの悩みは、たいがい察しがつきます。

溺れる人は助ける、人間の本性は利他だ

たとえば、職場の上司が自分を認めてくれず、それをストレスに感じるのなら、上司の言葉に反発するのをやめて、一切合切を受け入れてみる。そうやって自分の反応が変われば、それを受けて今度は上司が変わるはずです。そうすると2人の関係性もいい方向に変わるかもしれないじゃないですか。

職場では日々問題が発生します。そのたびに対処法を一から考えるのは大変です。こういう場合はこうするとうまくいく、という指針があれば、ずいぶん気持ちが楽になると思いませんか。

その役割を果たすのが宗教です。世界にはいろいろな宗教がありますが、目的が人間の生き方の追求という点はどれも同じだといっていいでしょう。中でも世界三大宗教と呼ばれている仏教、キリスト教、イスラム教の信頼度は高いといえます。説かれている真理が永遠不変のものでなければ、これだけの長い間、世界中の人々から支持され続けるのは難しいからです。

ただし、キリスト教とイスラム教が一神教なのに対し、仏教には唯一絶対の神がいません。それどころか、初期仏教には信仰の対象すらなかったのです。では、開祖であるお釈迦様は人々に何を説いたのでしょう。それは、自分を見つめなさい、ということです。

昔もいまもこの世は自分の思いどおりにならないことばかりで、人々の悩みの種は尽きません。仏教ではこれを「一切皆苦」といいます。だから、悟りを開いたお釈迦様のところへも、救いを求めて多くの人が集まりました。しかし、どうすれば救われるかをお釈迦様は教えてくれません。訴えに耳を澄まし、「こういうふうに考えたらどうですか」とアドバイスを送るのみなのです。唯一絶対の存在がいないのですから、答えは自分で見つけるよりほかないし、見つかるまで考え続けなければならない。仏教にはそういう厳しい一面もあるのです。

その代わりお釈迦様は、考えるためのヒントをたくさん残してくれています。そのうちのひとつが「利他」。目の前で溺れている人がいたら、誰だってわが身のことなど顧みず、助けようという気持ちになるじゃないですか。このように利他というのは仏の心であり人間の本質だというのが、大乗仏教では基本の考え方になっています。