ドイツの自動車戦略はヒトラーから生まれた
さらにヒトラーは、その翌年には「フォルクスワーゲン計画」にも着手した。1934年にベルリンで開かれた国際モーターショーで、ヒトラーは、1000帝国マルクで買える国民車を作ると宣言する。ちなみに、フォルクスワーゲンは、「フォルク(=国民)のワーゲン(=車)」、アウトーバーンは、「アウトー(=自動車)のバーン(=道路)」という意味になる。
この国民車づくりの大プロジェクトを任されたのが、当時、車の設計者として有名だったフェルディナント・ポルシェ。言うまでもなく、ポルシェ社の創立者で、19世紀の終わりに、世界で初めて電気自動車を時速100キロメートルで走らせた。現在のポルシェ社はフォルクスワーゲングループの傘下にあるが、両社の関係は古くて深い。
こうして1938年、国威発揚の掛け声の下にフォルクスワーゲン社が創立された。「休みの日には皆がドライブできる生活を」というスローガンは、生活苦の只中にいた国民を魅了した。ただ、ヒトラー時代にどんどん建設されたアウトーバーンとは違って、フォルクスワーゲンのケーファー(カブトムシ)が国民車として、当時の西ドイツ全土に浸透したのは、ヒトラーがいなくなってからのことだ。
戦後、ドイツは「国家」を失った
ヒトラーがいなくなったのは1945年4月30日で、そのあとまもなくドイツは文字通り崩壊する。日本も同じ敗戦国だが、政府はちゃんと存在し、ポツダム宣言の条項を呑んで、「降伏」した。それに基づき、主な連合国と「平和条約」を締結。ソ連や韓国とは別途、それぞれ「日ソ共同宣言」、「日韓基本条約」および「日韓請求権協定」を結んだ。
しかし、ドイツは違った。ヒトラーの遺言でドイツ帝国の大統領に就任したカール・デーニッツ元帥は、無条件降伏に調印したあと、連合国に逮捕された。ドイツは、平和条約を結ぶ機会も資格も与えられず、無政府状態のまま米・英・仏・ソの連合四カ国軍に占領された。
国家というのは、領土、国民、主権という三つの要素からなる。しかし、戦後まもないドイツには、国民はいたが、確固たる領土もなければ、もちろん主権もなかった。つまり、戦後のドイツは一時的とはいえ、国家を失った。それが国民にとってどれほど不安な状況であったかということは、想像するだに恐ろしい。警察や法律といった自分たちを守ってくれるものが何もないところで、国民は生き延びた。しかも、ホロコーストのせいで、ドイツ人には名誉もない状態が、戦後も長く続いた。