その後を左右した「フォルクスワーゲンの価値」
フォルクスワーゲンは、敗戦直後の5月より、ただちにイギリス占領軍の配下に入った。軍需の生産設備となっていた工場は、建物は2割が破壊されていたが、生産設備の9割は、どうにか使用できる状態にあった。そこで、6月半ばには、「カブトムシ」の生産が始まった。
しかし、同社の先行きはまだ不明だった。当時、占領軍は、賠償の代わりと称して、おびただしい数の特許や技術を、ときには技術者や生産手段ごと収奪し、自国に持ち帰っていた。フォルクスワーゲン社に対しても、イギリスのフンバー社とアメリカのフォード社が興味を示し、綿密な調査に入った。
ちなみに、当時のドイツの都市は、どこも見渡す限りの瓦礫の山だった。ベルリンを視察したアメリカ軍の幹部は、この街の復興には100年かかるだろうと言ったほどだ。その荒涼とした風景に影響されたのか、英米どちらの国の調査団も、フォルクスワーゲン社は無価値であるという結論に達した。彼らが、フォルクスワーゲン社を、醜い形の自動車しか作れない凡庸な企業だと思ったのだとしたら、判断を完全に誤ったと言える。
いびつなほどの経済格差が生まれる西と東
しかし、そのおかげで同社は幸運にも、ドイツ企業として存続することが可能となり、その後まもなく「カブトムシ」の生産が炸裂する。ドイツ人にできたのは、ただ、死にもの狂いで働くことだけだった。1949年、ドイツは、東西に分裂したまま、それぞれに独立する。以後、特に西ドイツは順調に復興し、東ドイツに対して、次第にいびつなほどの経済格差をつけていくことになる。
「カブトムシ」の生産台数が10万台の大台に乗ったのは1950年だ。その5年後には、累計生産台数が1000万台を超えた。頑丈で、安くて、長持ちしたこの車は、ドイツの「奇跡の経済復興」のシンボルとなった。かつてのヒトラーの約束が、ようやく現実になったのである。
もちろん、フォルクスワーゲン以外のメーカーも好調で、あらゆる用途の車が生産された。今では高性能車のメーカーとして名を馳せているBMWが、この頃、豆粒のようなイセッタをライセンス生産していたのは意外で面白い。
ドイツ人にとって自動車は自由の象徴
経済が急速に回復していくにつれ、安い車ではなく、高速車を求める顧客も増え始めた。ポルシェが伝説的な名車911の生産を開始したのが1963年。ドイツの奇跡の経済成長の真っ只中だ。車はドイツ人にとって、豊かさであり、同時に、限りない自由の象徴でもあった。
時代は下って2011年。統計では、世界中の乗用車の5.7%がドイツにあったと言う(「Verband der Automobilindustrie」/ドイツ自動車連合会の資料より)。2018年の日本の乗用車の保有台数は6050万台で、ドイツが4700万台。台数では日本のほうが多いが、人口が違うから、乗用車の密度はドイツのほうが高い。18歳以上の成人の3人に2人が車を持っているという計算になる。