子育ては大変だ。新幹線で赤ちゃんが泣き出せばデッキに移動しなければならないし、ベビーカーで電車に乗るのは肩身が狭い。なぜこんなに息苦しいのか。精神科医の熊代亨氏は「現代社会は他人に迷惑をかけるという“リスク”を回避して子育てをすることを親に求めてくる。その考え方が強すぎるあまり、私たちは自縄自縛になっていないか」と指摘する――。

※本稿は、熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』(イースト・プレス)の一部を再編集したものです。

東京湾・浦安
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生きていること自体が「リスク」だ

新型コロナウイルス感染症が最も警戒された2020年の3月から5月にかけて、日本人の大半は感染症という健康リスクに敏感に反応した。人々は争うようにマスクを着用し、ロックダウンが宣言されたわけでもないのに外出を自粛した。

この場合、日本人の健康リスクに対する意識の高さは感染予防に寄与したことだろう。だが、リスクに対する意識の高さが必ず良い結果をもたらすとは限らない。新しい命を生むこと・育むことに関しては、まさにそのリスクに対する敏感さがあだになっている側面もあるのではないだろうか。

仏教では「生・老・病・死」を四苦と呼び、これらが苦の源であるとしている。老・病・死がリスクであるとするなら、そもそも生きていること、生まれてくること自体もリスクと言わざるを得ない。実際、これから述べていくように、生は現代社会におけるリスクとして、合理性をもって回避されようとしている。

子どもは生まれる前から「リスク」の塊だ

なかでも子どもはリスクの塊だ。子どもは生まれる前からリスクを孕んでいる。

妊娠・出産にまつわるトラブルは尽きない。昨今は高齢出産が増加しているため、流産や早産などのリスクも高まっている。子どもがどのような遺伝形質を持って生まれてくるのかは生まれてみなければわからない。そうした予測不能性に生殖テクノロジーが貢献するとしても完璧にはほど遠いし、また優生学への反省を経た現在においては完璧でさえあれば良いとも考えられない。

無事に子どもが生まれても、乳幼児期には事故のリスクがついてまわる。異物を飲み込まないように、アレルギーにならないようにと、親は子育てに細心の注意を払う。学校に通うようになれば登下校中に事件や事故に巻き込まれないように心配し、身体が大きくなればよその誰かの迷惑にならないか気を揉むことにもなる。

不登校。引きこもり。不純異性交遊。思春期以降も安心はできない。子育てに親の金銭や情熱を傾ければ傾けるほど子育ての“賭金”は高くなり、それに伴って、子育てについてまわるリスクはますますマネジメントされなければならないものとなる。かといって、“賭金”をリスクマネジメントしようと神経質になりすぎれば、その神経質さ、その親の不安が子育てのメンタルヘルスに難しい影を投げかけることになる。