子どもは「よく生まれ、よく死ぬ」ものだった

親自身もリスクに曝される。母親は産前から妊娠糖尿病や早期胎盤剥離などの健康リスクを冒し、医療によって死亡リスクが大幅に減らされているとはいえ、出産はいまだ命懸けの行為である。産後うつ病にはじまり、子育てに伴うメンタルヘルスの問題は引きも切らない。虐待やネグレクトに誰もが敏感になっている昨今は、自分の子育てが適切なものなのか、とりわけ注意しなければならない。

日本に限らず、近代以前の社会はたくさん産んでたくさん死ぬ、多産多死の世代再生産によって成り立っていた。後に、人口ボーナスによって経済成長を導いてゆく戦後ベビーブーム期の親たちも、現代では考えられないほど子どもを産み育てていた。今日の、子どもがリスクそのものと言うべき状況に基づいて考えると、昔の人々は途方もないリスクを背負って子育てをしてきたように思えるかもしれない。

だが、実際にはそうではなかった。子どもも大人ももっとリスクに鈍感ななかで子育てが行われ、それで世の中は回っていたのだ。そもそも本書の第3章でも触れたように、リスクに基づいて物事を判断する発想自体、きわめて現代的なものである。

子どもはよく産まれ、よく死ぬこともあり、子育ては親にとってここまで負担のかかるものではないと同時に、生死の責任の曖昧なものでもあった。子どもは安全ではなかったが、ある部分では今日の子どもよりも自由で、実際、子どもが自由の象徴とみなされていたところもある。

少子化が進む国ほど、子どもに手をかけている

対して現代社会の子育てにまつわる通念や習慣は、私たちの先祖に比べて神経質で、先祖から見れば、子どもをあまりにも大切にしているだけでなく、子どもをあまりにも不自由に閉じ込めていると映るだろう。

日本をはじめ、多くの先進国では少子化が進行しており、そのような国々では子育ては大きなリスクと表裏一体の営みと捉えられている。つまり、少子化が進行している国では必ず、親は子どもに細心の注意を払って当然とみなされ、虐待やネグレクトに対して社会も親自身も注意深くなければならない。と同時に、多くの家庭はますます子どもの教育に大きな投資を心がけるようになり、その投資に見あった成果を期待する視線を浴びながら子どもは育てられている。

本書で触れるように、過去の子育ては危険で野放図な、現代の基準では許容できないものだったが、現代社会の子育てもこれはこれで、リスクや費用対効果のロジックによって歪んでいるのではないだろうか。

そのような歪みは、現代社会では歪みと呼ばれるよりも、正しさや必要性として認識されるものではあろう。だとしても、ホモ・サピエンスの子育ての歴史を振り返る限り、現代社会の子育てのほうが人類史のなかでは異質であり、その異質さは親子を利するばかりでなく、子育てを始める人々をためらわせ、子育てに携わる当事者の負担を大きくするハードルともなっている。