「思いもよらない展開」と「想定した流れ」を望む矛盾
「2人でお出かけとか行ってみる?」=(くっつかないかなぁ)
「あの人のことイヤならバシッと言ってもいいよ?」=(対立しないかなぁ)
と、打ち合わせや会議の場で伝えるのとはまた違い、雑談には雑談でソフト部分に占める伝達の役割が大きい。指示ではなく、あくまでリクエストの範疇である。ただ、出演者サイドから見ても、誰を軸に各回のストーリーを組み立てるか、困ったら誰に話すか……など気持ちの運びや展開を整理し、本番に向かう場合も多い。
そうした演者との調整がまた、目に見えない制作者の「手腕」と評価され、現にタレント対応に優れた制作マンは、やはり業界で重宝されるようにひしと感じる。
台本があっても、演出がある限り100%のリアルではない。制作陣が環境や感情の矛先をコントロールするだけで、文字通り「強制」はしていないのだろう。だが、そこに制作者と出演者という関係性が根を張るならば、ちょっとした雑談も、ひとたび「強制」へと姿を変えかねない。
「思いもよらない展開!」をあおる番組でありながら、「想定した流れで盛り上がってほしい!」という制作側に横たわる矛盾。そして、その狭間を埋めるのが「演出」というグレーゾーンでもある。
一昔前の番組は「視聴者に不親切」だった
今回の騒動から核心を掘り下げれば、演出とリアルの線引きを詳らかにしてこなかった、という背景が首をもたげる。最近であれば「痛快!ビッグダディ」(テレビ朝日系列)だって、古くは「はじめてのおつかい」(日本テレビ系列)だって、リアリティーショーである。記憶をたどれば、おつかい途中に映るカメラむき出しのスタッフ、住民に扮したスタッフ……あのちょっとした「隙間の現実」が、主観的になりがちな人間を客観視させ、リアリティー“ショー”として、ほどよい心持ちで楽しませてくれていたのだと感慨深い。
自粛期間中、ふと一昔前の録画番組を、“VHS”を引っ張り出して見てみた。数本見終えて、昨今の番組と比べて感じた点は“とても視聴者に不親切”ということだ。出演者のコメントをフォローする字幕などのスーパーもない。スタジオはほとんどノーカット。「ビシッ!」「ガ~ン!」みたいな効果音も、イラストさえももちろんない。ただ不思議と“観づらい”という感想は芽生えなかった。かえって「しっかり見よう」という思考が働き、より集中して楽しめる、そんな快味さえあった。