テラハメンバーが「ムカついてた」こととは

もちろん、過去にもヒロインをとことん“いびる”役を演じた女優に、脅迫電話が寄せられるなどの騒動も多々あった。しかし今は、お茶の間でテレビ画面に向かって呟いていた悪口が、ごっそりとそのままネットに乗っかり、SNSを通じて相手まで安易にたどり着いてしまう時代だ。事実海外では、不快感を言葉としてぶつけながらリアリティーショーを見る「ヘイトウォッチング」なる楽しみ方さえ存在する始末……。「有名税」を持ち出しての批判もあるが、演者の精神的負担は昔の比ではないはずだ。

木村花さん訃報に際し、テラスハウス関係者の言葉を拾うと、編集方法について言及している発言が多いように受け取れる。あるメンバーの1人はツイッターで「何も指示されていない」と示しながら、同時に「編集にはムカついてたけどな」とも発信している。出演者と制作者の間で、どういうやりとりが行われていたかは定かではなく、推し量ることしかできないが、彼が指摘したこの内容はおそらく彼の目から見た事実であろう。

結論めいたことを先に述べてしまうと、内容の方向性を完全に出演者に任せきるような番組の作りは、制作側としては怖くてトライできないと想像される。

その理由を、編集も含めた「番組における演出の在り方」から思索してみたい。

制作側の感想やアドバイスは「指示」になるのか?

リアリティーショーの前提は、台本が無い中でカメラを回し、日常のやりとりをドキュメンタリーの要素を入れつつ公開する。つまり、普段は直視することのない人間の本性が垣間見えるほど、番組の特性が“よく出ている”という評価につながる。だとすれば、回を追うごとにショーとしての面白さを求めるのは、作り手として当然の思考回路である。

おそらくだが、制作者と出演者が全く交流しないということは考えにくい。ベッタリでなくても、ピンポイントで感想やアドバイスを行う場面はあったはずだ(逆に、全く交流が無かったとすれば、それはそれで「出演者の心のケア」という観点で問題だ)。出演者側に立ち返っても、求められる意図をくみ“番組を盛り上げたい”と少なからず思案してくれていたことだろう。

先程のメンバーの発言に立ち返れば、そうした場面を「指示」と呼ぶかどうかは、やはり双方の裁量と解釈による。「雑談」と呼んでしまうことだって可能だ。だが、その雑談こそ、私意として制作側の意図を伝える役割を持つことを、明瞭に確認しておかなければならない。