今のテレビ制作は、「笑い声」ひとつ取っても、映像にかぶせる声を無数にあるストックから吟味して選んでいる。年齢、性別はもちろん、「大爆笑」なのか、「ジワジワこみ上げてくる笑い」なのか、「数人程度の嘲笑」なのか。それぞれの場面に合う声を、一つひとつ丁寧に加えていく。画面下に絶えず表示されるようになった「文字フォロー」においても、フォント・色味から出すタイミングに効果音と、これまた細に入り組み込まれている。
対立構図を分かりやすく示しながら笑いをとる
例えば、スタジオで「爆笑の笑い声」を足しつつ、唯一笑っていない人間の顔を、鹿威しの効果音などを乗せ、どこかひょうげて映し出す。これにより、本人はたまたま気を抜いていただけでも、編集の冥利によって「ムッとしている」ような印象操作ができる。オーバーかもしれないが「この部分を楽しんでね」と対立構図を分かりやすく示しながら、何度も“てんどん”して(業界用語で同じギャグを繰り返す意味)、笑いを増幅する。これも現場では演出の範疇として認識されているのだ。
しかしながら、はたとわれに返り、テロップやスーパー、感情を誘導する演出が無ければ視聴者は番組から離れていくのか、と思慮を巡らせた場合、「必ずしもそうではないのではないか?」と感じてしまう。1カメラで一方的に言葉を発信し続け、情報が目くるめく打ち出されるYouTubeを「面白い!」と閲覧する若者が大多数いる。その事実が、如実にそれを物語っている。
ここ数年、テレビ番組も記者会見を生で“取る”という手法が増えた。当初こそほとんど編集を加えない「だだ流し」への拒否感も制作陣で根強かったが、いつの間にやら「速報性」というお題目が取って代わって掲げられるようになった。言わずもがなスーパーなども最小限の“生対応”だが、それでも多くの視聴者が見てくれている。つまり、「見たい欲求」と、過剰な演出はそれほど関係ないのかもしれない。