「識者」「コメンテーター」に依存するメディア事情

本来、何かの主張をしたい場合は、ファクトで勝負すべきなのですが、上に挙げたようなコラムで、メディア側が何となく自身の主張に近いオピニオンを掲載することは珍しくありません。こうした「記者が根拠となる事実を取材してとらえる」ことができなかったとき、「記者が事実を書く代わりに、その媒体が言いたいことを発言する話者」を私は「代理話者」と呼んでいます。

新聞や雑誌に登場する「識者」、テレビでの「コメンテーター」という立場は、この「代理話者」にあたります。

新聞社勤務時代、私は「識者のコメントを取材して載せるくらいなら、その内容を証明するような事実を取材して書け」と教えられました。識者コメントはそれができず、論拠が弱い時の「ごまかし」だと教わりました。代理話者の発言が掲載されていることは「裏付けとなる事実の取材ができなかった・足りなかった」という記者にとっては「敗北」だったのです。

自分たちの主張に沿ったコメントを取りに行くメディア

こうした文化が廃れ始めたのは、新聞や出版の企業としての業績が下り坂になった90年代半ば以後でした。経費削減などの影響で取材にあてる時間が短縮され、記者が取材した記事だけでページを埋めることが難しくなりました。

その代わりに代理話者のコメントが増えたのです。最後には筆者を固定した「コラム」「エッセイ」など「連載もの」で紙面を埋めるようになってきました。そのほうがコストが少なくて済むからです。

朝日新聞なら朝日新聞で、自分たちの主張に沿った内容を発言してくれそうな代理話者はある程度事前にわかっている。気の利いた記者なら、それをリストアップし、連絡先(電話番号、メルアド、SNSのアカウントなど)を用意しています。これは新聞社でなくとも、週刊誌を発売する出版社やテレビ局でも同じです。

そうするうちに「インターネット系ならあの人」「言論の自由がらみならあの人」というふうに「常連」ができてきます。その媒体の方針に沿った内容を言う代理話者の顔ぶれで「あの人は××系」「◯◯系」と「色分け」ができるようになるのです。

「識者」「コメンテーター」がメディアに出てきたときは、実は「メディアの言いたいことを代わって発言する代理話者」ではないか、と疑ってみてください。そういう視点は絶対に必要です。

主語が明示されていない文章は疑う

また、近年、新聞でよく見られる表現で気を付けたほうがよいのが「主語が明示されていない文章」です。1980年代、私が大学を卒業して新聞記者として働き始めたとき、上司(デスク)に厳命されたのが、「記事では、主語が何かわからない文章を絶対に書くな」でした。

その悪例のひとつが「~れる」「~られる」で終わる「受身形」です。うっかりそういう文章を記事に書いて出すと、ズタズタに直されて、ボロクソに叱られたものです。