証拠となる事実の提示がないオピニオンは全部捨てる

ところが、精査してみると、どこにも裏付けになる「事実」の提示がありません。評論家は電力会社幹部の心や経産省の思惑等々があるのだろう、といった理由を述べ、こんな理由で再稼働をすべきではないと主張するのですが、その根拠となる事実(エビデンス、証拠、論理)がなかったのです。つまり文面から判断する限り、挙げられた理由はすべて「筆者の想像」にすぎないと考えざるをえません。

「全部捨ててよい」と述べた「オピニオン」とは、こうした「論拠となる事実を欠いた記述」を指します。「個人の主観」「想像」「空想」「推量」「感想」などと言い換えてもいいでしょう。その内容には「単なる妄想、空想あるいは当てずっぽう」から「ほぼ事実」までレンジがあります。

もちろん他人のオピニオンに耳を傾ける必要はあります。とりわけ好きな作家やアーティストの意見を聞くのは楽しいことでしょう。しかし、事実を確認しよう、「真実」「ファクト」に迫ろうという作業においては、論拠となる事実を提示していないオピニオンは捨てるべきです。

反対に、裏付け、論拠、根拠となる事実を伴ったオピニオンを英語で「ファクト・ベースド・オピニオン(Fact Based Opinion)」といいます。こちらは捨てる必要はありません。根拠の提示がないオピニオンが社会で価値を持つのは、むしろ例外と考えた方がよいでしょう。

オピニオンが価値を持つのは例外に過ぎない

かつては、マスメディアそのものを企業が独占していました。そのため、特定の人だけが言論を公的に表明できる特権を享受していました。そのメディアの社員記者か、評論家、学識者など発言者としてつながるという「特権」がなければ、マスメディアで社会に言論を表明することができませんでした。

だから、その「特権者が何をオピニオンとして言うのか」も注目を集める社会的価値がありました。そういう時代にはある程度、文芸評論家の○○さんのオピニオンといったものにも価値があったのでしょう。

しかし、すでにそうした「マスメディアで言論を表明できること」の特権性はなくなります。誰もが言論を発信し始めてみると、旧型メディアに連なっていた発言者より、はるかに優れた見識や知識、感性、着想や思考力を持つ人材が市井に多数いることがわかってきたのです。

ただ、例外的にオピニオンが価値を持つケースがあります。それはオピニオンそのものが「事実」として重要性を持つケースです。

たとえ言っていることが無茶苦茶であっても、トランプ大統領のオピニオンは、それ自体が大きな影響力を持ちます。発言者そのもの、またはその言動や行動が重要性を持っているからです。しかし、こういう「社会全体に重要性を持つ発話者」はほとんどいません。アメリカ大統領だとか、あくまでも例外的だということは強調しておきたいところです。