パンデミックが起きると、人々は思わぬ行動に出ることがある。ペストが大流行した1300年代のヨーロッパでは、病を「神の与えた罰」と考えた人々が、贖罪の気持ちを表すべく「鞭打ち苦行行進」をしていた。一体何だったのか。歴史作家の島崎晋氏が解説する——。

※本稿は、島崎晋『人類は「パンデミック」をどう生き延びたか』 (青春文庫)の一部を再編集したものです。

納骨堂で撮影した写真、チェコ共和国、クトナ・ホラ。疫病で亡くなった人たちの遺骨
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発症前のペスト患者が乗り込んだ船がヨーロッパへ

歴史上、何度もペストの禍に見舞われたヨーロッパだが、1347年から52年にかけて大流行したものは「黒死病」と呼ばれる。この名は死の直前、黒っぽい斑点で全身が覆われることに由来する。

このときのペストの発源地は中国南部か中央アジアのどちらかといわれる。どちらが正しいにせよ、当時のモンゴルの存在を無視して語れない。

13世紀、モンゴルの版図は中国大陸全域から西アジアにおよび、ロシア・東欧地域も属国化していた。14世紀に中央アジア以西のモンゴル政権でイスラム化が進展するとともに、ジェノヴァ人の植民地「カッファ」(現在のフェオドシア)と関係が悪化し、ついには戦争となる。

ジェノヴァ人の籠城戦が展開されるなか、ペストの被害が広がり始めた。ペスト患者が急増するに及んではもはや戦争どころではなく、攻め手は戦果がないまま撤退した。これを見たジェノヴァ人たちは本国への連絡のため、ガレー船団を派遣する。しかし、その船には発症前のペスト患者と感染ノミが取り付いたネズミも乗り込んでいた。