船内は患者続出、寄港地で大流行が始まる

船団は「コンスタンティノープル」(現在のイスタンブール)、シチリア島の「メッシーナ」を経て本国に向かうが、航海途上の船団内は患者が続出してパニック状態にあった。当然ながら寄港地も感染を免れず、コンスタンティノープルでは1347年7月初旬、メッシーナでも同年9月末からペストの大流行が始まる。

両都市とも交通の要衝に位置していたことから、そこから四方への感染も早く、コンスタンティノープル発のものは翌々年までにイスラム圏全域とバルカン半島、東地中海の島々、メッシーナ発はロシア・東欧を除くヨーロッパ全域へと広がり、アイスランドやグリーンランドさえ例外とはならなかった。

相手が感染症とあっては王侯貴族といえども抗するすべはなく、1337年に始まる英仏間の百年戦争も1347年9月28日から足掛け9年の間は休戦を余儀なくされた。

この戦争はフランス王位継承に対し、イングランド王「エドワード3世」が異議を唱えたことに端を発する。フランス王フィリップ4世(在位1285~1314年)の弟の家系である「ヴァロワ家」より、フィリップの娘から生まれた自分こそ優先されるべきとしたのである。

ヨーロッパ全体で「4人に1人」が死亡

開戦以来、イングランド側が終始優位に立っていた。けれども、ペストが相手では勝手が違い、無駄死を避けるには流行が下火になるまでただ待つしか道はなかった。戦争を中断させるほど凄まじいペストの猛威。ロシア・東欧での流行は1352年の夏に始まった。

それらも含め、全体でどれほどの犠牲者が出たのか。諸記録にある死者の数には誇張が多く、都市部からの逃亡者も死者として数える例が多いことから正確な数字は出しにくい。信憑性の高い史料によれば、イタリアのフィレンツェでは1250人いた大評議会のメンバーが380人にまで減少。北ドイツのハンザ同盟都市リューベックでは財産所有市民の25パーセント、市参事会委員の35パーセントがペストで死亡している。ヨーロッパ全体では4人に1人が死亡とする推計が比較的信頼がおけるものとされている。

黒死病の名で恐れられたこのペストの流行が一応の終息を見たのは、1388年頃のことだった。