戦後に起きたヌードショーブーム
1948(昭和23)年、高まる人気と折からのヌードショーブームを追い風に、メリー松原は日本劇場に進出することとなった。6月8日から27日に開催される「日劇 夏のおどり」にゲストとして招かれたのだ。出演は第六景と第七景、人魚と漁夫の踊りだった。
メリーは「これまで白眼視されてきた私たちにとって、大劇場への進出はたいへんうれしいことです。私たちのやっていることが、決してイヤらしいとか何とかいうものでないことを、この機会に多くの方にわかっていただければ幸いです」と語った。
しかし、春に当局がショーのバストの露出を禁止したのを皮切りに、業界内で自粛の空気が広がった。誰しもお上には睨まれたくはない。ところが、ヌードショーを封じると目に見えて客足が減り、解散する劇団や転職する踊り子も現れた。メリーは幸運なことに、田中重雄監督の大映映画『殺すが如く』に出演が決定していた。役どころは「島村(ヒロインの勤める会社の社長)の情婦メリー」だった。
明けて1949(昭和24)年、自粛していわゆる「普通ショー」を見せていた劇場が、生き残りを賭けてヌードを解禁し始めた。メリーは常盤座で「メリー松原とハイライトショー」をタップダンサー、矢野英二の振り付けで踊り、8月には日劇小劇場で「女の楽園」に出演した。この企画は連日大盛況で、平日でも130%の入りだった。
「女の川開き」「女のパクパク」
日劇小劇場、通称「日小」はもとは軽演劇の小屋だったが、3月からバーレスクに転換していた。笑いや風刺も取り入れたヴォードビルスタイルの「女の~」シリーズは大当たりをとり、メリーも1950(昭和25)年1月から「女の地球儀」、2月から「女の巨砲」、3月から「女の武器」と立て続けに出演。これらがだんだんエスカレートし、タイトルも「女の川開き」「女のパクパク」「女と毛槍」となり、支配人が何度も所轄の警察に呼び出されて始末書を書かされることになった。
このころ、メリー松原、ヒロセ元美、ヘレン瀧らAクラスの踊り子の1興行(2週間)のギャラは2万5000~4万円、本業副業含めて月10万円足らずといわれていた。地方に行くと日給5000~6000円、1日3回出演すると2万円になる。お座敷に呼ばれてストリップでもすれば、ものの5分で1000円から2000円以上といわれた。名古屋の名宝劇場、大阪の梅田劇場など、メリーはいい話があればどこへでも出かけた。クリスマスの晩には実に11カ所を掛け持ちしたという。