甲子園球児はみんな「暴力に耐えた人間だ」という刷り込み
「入学したときに65キロあった体重が、55キロまで落ちました。学校のなかで先輩と顔を合わせるのが怖い。だから、教室からはほとんど出ませんでした。甲子園の埼玉予選のころは、ストレスで胃液が出て、ずっとご飯を食べられない状態でした。3年生は早く引退してくれないかなと、そんな気持ちが強くて。練習でも学校でも、とにかくミスしないように、チョンボしないようにとだけ考えていました。特に厳しくされたのは、プレイに一生懸命さが足りないときかな。ベンチ外の1年生は生活態度で。僕はダブルで食らいましたね(笑)」
なぜ、そんな生活に耐えることができたのか。
「野球の名門や強豪校はもっとひどいことを知っていました。殴る蹴るが当たり前で、耐えられない人はレギュラーになれないし、甲子園で活躍していた人たちは、暴力を我慢して乗り越えた人たちなんだという刷り込みがあった。だから、やれただけです。いま思えば、全然意味がない」
リトルリーグに入れた息子からのショックな一言
菅原は厳しさに耐えたことで、レギュラーになり、大学では神宮球場でもプレイできた。彼もまたサバイバーのひとりだ。
「大学まで野球を続けて、よく耐えたと言われることが多いんですが、途中でやめた人のほうが正常だった気がします。人間的というか。最後まで続けたのは、意地があったからというだけです。だから、ドロップアウトした人間が負け犬のような扱われ方をするのはちょっと違う気がします。確かにあの数年間以上につらい経験は、その後30年近く生きてきたなかでなかったけど、生き生きと個性を伸ばしたほうがよかったんじゃないかとも思いますね」
野球界で当たり前のことが、世間では普通ではないと教えてくれたのは、自分の息子だった。
「最初は当然のように、息子を大田リトルに入れました。5年生までやりましたが、あるとき『試合で負けたあとに、おまえのエラーで負けたんだから謝れと言われるのはおかしい。野球はチームスポーツで、誰かを責めるものじゃないでしょ』と言われました。もう野球は嫌だからと、アメリカンフットボールのほうに行きました。『やめるな』とは言えませんでしたよ」
苦しいことの先に勝利がある。だから、どんな仕打ちを受けても耐えろ。そんな指導はもう若い世代には通用しない。
「野球を楽しめるように指導するべきだと思うけど、それができているチームがどれだけあるのか。リトルに入る子も親も、本気で甲子園を目指している。そうなれば、楽しみながらというのは難しいですよね」