何度捕まっても痴漢犯罪を繰り返す人がいる。彼らは「やめたいのに、やめられない」と話す。筑波大学の原田隆之教授は、「本人の反省に訴えかけるだけの処罰には、十分な効果がない。『依存症』と考えて、治療を目指すべきだろう」という――。

※本稿は原田隆之『痴漢外来 性犯罪と闘う科学』(ちくま新書)の一部を抜粋、見出しなど再編集したものです。

渋谷駅前・スクランブル交差点
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職業も年齢もさまざまだが、例外なく全員が男性

東京都心にあるターミナル駅の駅前に、その病院はある。一日の乗降客は200万人を超えているというから、日本だけでなく、世界でも指折りのマンモス駅である。

元来ここは、依存症を専門とする数少ない精神科病院として、アルコール依存症、薬物依存症などの患者を拒むことなく受け入れてきた駆け込み寺のような場所である。この病院のワンフロアで、痴漢外来の治療が実施されている。

私が担当するのは、毎週平日の夜に行われるプログラムである。その日の夜になると、仕事を終えたスーツ姿のサラリーマン、大学の授業を終えた学生、自営業の男性など、職業も年齢もさまざまな「患者さん」がやって来る。そして、机がロの字型に並べられた部屋に入り、それぞれが思い思いの席につく。

職業も年齢もさまざまな人々であるが、共通していることが二つある。第一に、全員が男性だということだ。これは、10年間例外がない。そして第二に、当然ながら皆それぞれ、性に関する問題を抱えているということだ。

やっと「治療の場」を見つけたという安堵感

第一回目のセッションでは、それぞれが皆初対面であり、名前も顔も知らない者同士である。最初は全員がうつむき加減で、緊張感を露わにしている。誰しもここに来るまでに、相当なハードルがあったことは容易に想像できる。はじめて病院に電話したとき、はじめて病院の門をくぐったとき、精神科医による初診でこれまでの自分の行動について話したとき、どれもそれぞれに緊張の瞬間だっただろう。

そして、主治医から「性的依存症」「性嗜好障害」などの診断が下され、治療プログラムを受けるように指示されて、この日を迎えたわけである。病院の門をくぐったときの一人の緊張感とは違って、今度はほかに10人もの他人がいるのだから、別の居心地の悪さを感じているだろう。

その一方で、すでにそこには一種の連帯感のようなものが生まれているのを感じる。誤解のないように言っておくが、それはもちろん共犯者意識のようなものではない。同じような問題を抱え、これまでどこにも相談できず、どうすればよいのかわからずに途方に暮れていた人たちが、やっと「治療の場」を見つけたという安堵感のような気持ちである。