自分を追い立てるため「7年間で4回の移転」
1950(昭和25)年、戦前から続いていた衣料統制が解除され、衣料品が自由に売買できるようになりました。これを機に仕入れも楽になりました。
ただ、自由に取引できるとなると、ライバルも増えてくることになります。むしろ、そうした追い風の時期こそ気を引き締めなくてはならないと感じていました。
1946(昭和21)年に猿猴橋町に店舗を設けてから、翌年にはその近くの20坪2階建ての店舗に移転。さらに49(昭和24)年には2度移転をして、53(昭和28)年には広島市松原町に移ります。実に、7年間に4度も店舗を変えているのです。
これは、やはり現状に安住したくないという思いからのことでした。自分で自分を追い立て、商売に邁進したかったのです。
そのため、この移転の最中、1950(昭和25)年には衣類卸問屋の株式会社山西商店を設立しました。従業員は7人、資本金は100万円でした。
4度目に移った店舗は、広島駅のすぐ近く、市場のそばで、まさに一等地にありました。そこはもともと銭湯でしたが建物は巨大で、広島で一番大きな風呂屋といわれていました。当時、内風呂のある家は少なく、たいてい銭湯に通っていました。ですから、この銭湯もかなり繁盛していたのです。それでも、どういう理由かは分かりませんが、店を売ろうとしているという話が聞こえてきました。
すぐに見に行ったところ、立地や広さは申し分なく、ぜひここに店を構えたくなりました。
今なら3億円相当の銭湯を即決で購入
私はすぐさま銭湯の主人のところへ交渉に行きました。中村さんという方で、番台に座っていました。その頃、私はまだ20代ですから、中村さんの方がはるかに年上です。
「おっちゃん、この風呂屋売りたいって聞いたけど、ほんまかいな」
「ああ、ほんまや」
「売ってほしいんじゃが、なんぼや?」
中村さんは、私の姿をじろじろと眺めます。何しろ、仕入れや丁稚の給料にお金がかかり、自分の服装など構っていられません。汚いジャンパーに草履というスタイルで、それが当時の私のユニフォームのようなものでした。
「お前のような手合いに買える値段じゃないけ、帰れ帰れ」
けんもほろろ、というやつです。中村さんという人は、後から聞いたところによると、その界隈にたむろするやくざ者たちが風呂場で乱暴なことでもしようものなら、怒鳴りつけてつまみ出すような人だということでした。
かといって、私もそんなことぐらいでは、引き下がりません。
「おっちゃん、なんぼや。金額ぐらい教えてくれてもええじゃろ」
「しようがないな、1500万円や。どや、驚いたやろ」
鼻で笑っています。
「よっしゃ、買うた!」
「はあ?」 驚いたのは、中村さんの方です。
「お前、1500円やないで、1500『万円』やで」
「分かっとるわい。現金でええんかい」
中村さん、口が開いたまま、私の顔を見つめていました。よほどびっくりしたのでしょう。そのうち、「ははは」と大笑い。
「よっしゃ、売った」