戦後のマーケットで商いを始めた人たち
このころは小売もしていましたが、卸問屋としての取引の方を大きくしていきました。これは、私と丁稚3人では小売をするには限界があると考えたからです。お客の相手をするには店も小さいし、店員も少ない。それよりも、小売をしている店に品物を卸した方が効率もいいし、従業員も増やさなくて済みます。そうした理由で卸問屋にシフトさせていったのです。
そうはいっても、商売できるほど大量の衣料品が簡単に手に入るわけではありません。今と違って、とにかく物不足でしたから。衣料品は、誰もが喉から手が出るほど欲しがっていました。
調べてみると、神戸の三宮に衣料品を売っている問屋があることが分かりました。そこで、三宮まで仕入れに行こうと決めました。
同じ時期に、やはり三宮で薬の安売りを始めたのが、後にダイエーを作る中内功さんです。中内さんも戦地から復員して、商売を始めた人です。
こういった人たちが、賑やかな戦後のマーケットに大勢集まり、それぞれの方法で商いを始めたのです。
夜間急行で仕入れに向かい、帰りは寝ずの番
神戸、そして後には大阪が仕入れ先となりますが、広島からはいつも音戸号という夜間急行に乗り込みました。昼間の仕事を終えてから仕入れに向かうためです。
大阪では、真っすぐ繊維問屋街の船場に向かいました。少しでも多くの仕入れ先を回りたいので、預けておいた自転車を使って問屋巡りをします。仕入れた衣料品はその都度、荷台に積んでいきました。
いくつもの問屋を回っては、衣料品を買い込んでいきますから、どんどん荷物が増えていき、大量の衣料品を収めた鞄や風呂敷包みが20数個ほどになります。帰る頃には持ち切れないほどになっていますので、問屋の丁稚さんたちが荷物を駅まで運ぶのを手伝ってくれました。
荷物だけ別便にしてまとめて送るとなると、時間がかかり過ぎます。また、貨物便に乗せる手段もあったのですが、これも荷物を降ろして受け取る時間がもったいない。それで私がそれらを持って汽車に乗り込むのです。それが最も短時間で済む方法でした。どうも、私は若い頃から気が短かったようです。
夜行列車に乗り込み、荷物を網棚にずらーっと並べて置きます。私は、盗まれないように通路に立ったまま、一晩中寝ずの番です。
朝、広島駅に汽車が着くと、ホームでは私の店の丁稚たちが待っています。荷物を降ろすのを手伝い、用意してきたリヤカーに乗せて店へと直行するのです。
「山西には、いつも新しい品物があるなあ」
そんな声が聞こえてきました。それこそ、私が期待していた反応でした。
丁稚たちにはいつも「商売は素早くないとダメだぞ」と話していました。
これを繰り返していくことで、私の店は衣料品専門の店というイメージが作られていったのです。