ジョン・メイナード・ケインズ。この男の名を、あなたはきっと耳にしたことがあるだろう。

でも、この男が何ものかをどの程度知っているかは、あなたがどの世代に属するかでかなり異なるに違いない。あなたがけっこう年季を重ねているかたなら、ケインズを「資本主義社会の行方を左右した偉大な男」と理解しているだろう。けれども、あなたがまだ中年にさしかかったかそれ未満のかたなら、「名前ぐらいは聞いたことあるけど、実際のところよく知らない」、そんなところに違いない。

それもそのはず、ケインズほど、その評価が変転した学者は珍しいのだ。

ケインズは経済学者である。そして、おおよそ今から70年前、1936年に『雇用、利子および貨幣の一般理論』(以下、『一般理論』)という本を出版し、大きなセンセーションを巻き起こした。折しも世界大恐慌のまっただ中、資本主義社会の不安定性を論証しその処方箋を示したこの本は、驚きと畏敬を持って迎えられた。その理論は、「ケインズ革命」とまで称され、前世紀の多くの国家の経済政策に強い影響力を持った。ある意味で、ケインズの理論が、この時代の経済社会のあり方を変えてしまった、といっていいのだ。

けれど、その栄光は確固としたものとはならなかった。

前世紀の終盤から今世紀にかけて、多くの経済学者から造反の「反革命」が起きた。これは見ようにもよるが、ある意味、「ケインズの理論は完膚無きまでに叩きのめされてしまった」、といえなくもない。あなたが、ケインズの名を知っているにもかかわらず、最近あまり耳にしないのは、そういう事情によるのだ。

ぼく自身、ケインズには現在、アンビバレントな気持ちを抱いている。

詳しくはあとがきに書いたが、ぼくはケインズの経済学に憧れて、数学の道から経済学の道に転身した。経済に関してど素人だったときは、ケインズ理論はとても深淵でみごとな論理性を備えた理論だと思っていた。けれども、経済学の修行の途上で、緻密にひとつひとつ検討していった結果、思っていたものとはだいぶ違うものであることに気づいてしまったのだ。つまり、無理な決めつけや都合の悪い要素の無視などが散見される、ひどくアドホックな論理展開、そんな風な感触を持った。

とはいっても、がっかりしたわけではない。道すがら、ケインズとは別の場所で何度も再会するはめとなったからだ。いったいどこか。

現在の経済社会では、金融の高度な発達やグローバル化によって、さまざまな新しい問題が引き起こされている。今新聞をにぎわせているサブプライムローンによる株式市場の混乱が最たる例である。このところ先進国は、何度も新種のバブルとその崩壊、そしてその後遺症としての金融危機を経験している。このような金融市場での混乱に、最も先鋭的な分析を行ったのが、誰あろうケインズなのである。現代の経済学では、このようなリスクと思惑が絡み合う生臭い金融の世界を数理的手法で読み解く方法論が整備されつつあるが、それは皆ケインズを起源にしている、といっても過言ではない。

いったい、ケインズとは何ものなのだろう。

ちょっと先走りにすぎて軽率だが、めちゃめちゃ鋭い洞察力を持つアイデアマン。でまかせも言うが、真実を知っているのもこの男。それが現在のぼくのケインズ像である。

●この連載では、小島寛之著『容疑者ケインズ』の第1章の一部、ケインズの「一般理論」の批判的解説をご紹介していきます。