「相手には本にするのを嫌だという権利もある」
《だから5年かかるんです。踏み込んだことを聞ける関係を築くまで付き合って、本にするにあたって許諾もとります。相手には本にするのを嫌だという権利もありますからね。
他の取材でも同様に、世間から見ると理解することが難しいと思われる人であろうと、敬意を持って接したいと思っています。自分とは違う特別な人だという線引きはしないで人に会っています。そして、書いているうちに、どんどん聞きたいこと、会いたい人が増えていきましたね。》
河合は今、大学院の学生として「生命倫理」を学んでいる。その理由を聞くと、彼女は苦笑した。
《本当になんでここまでやっているんでしょうね。やはり、この問題の背景には長い歴史と知の蓄積がある。それを知りたい、と思ったということですね。
これもわからないことがあったから、知りたいということなんでしょうね。順序が逆な気もしますが、しっかりと学ぼうと思っています。》
著者自身の葛藤がなければ、人間の葛藤は描けない
知りたい、という思いの多寡がノンフィクションの質を決めていく。
《結局、光さんのことも本当のことはわかっていない部分もあると思っています。でも、知りたいと思い、わかろうとしてきました。
もう十分聞いた、というところでさらに「実は……」という話が出てくるんです。よしわかったと思った瞬間に知らない話が出てくるのが、取材の醍醐味ですよね。》
「そういえば……」と河合はこんな話をしてくれた。
《子供に残す遺書みたいな気持ちで書いていました。遺書というと少し大げさかもしれませんが、人間いつ何が起こるかわかりませんからね。この大事なテーマを、気づかせてくれた子供にいつか読んでもらいたいと思いました。
きっと子供が大きくなる頃には、科学技術と倫理のはざまはもっと広がっているでしょう。科学技術が進歩した時代であっても人間の気持ちにある、葛藤や揺れは変わらないでしょう。
大きくなった時に、この時代には、こんな議論があったんだと思ってもらえたらうれしいですね。》
河合はノンフィクションを「文芸の一ジャンル」だと言う。
あわい、揺らぎ、葛藤——。言葉にすればシンプルだが、描くためには2つの条件がある。第一に人間と対峙して、表層的なものではない、本人ですら気づいていない本当に声に接近しようとする取材力であり、第二に読み手に届く文章力である。
河合が言う「わからない」は取材不足から出てくる言葉ではない。取材を積み重ねても、やはり人間にはわからない部分が残る。それでも書くときは書かないといけないし、書くことでさらに知ろうとする。
そこに著者自身の葛藤がなければ、人間の葛藤は描けない。
2つの条件を備え、さらにテーマの社会性、普遍性をも兼ね備えた「文芸」としてのノンフィクション作品は決して多くはない。どこまでも人間に迫り、結果として社会を描いた本作は、ノンフィクションの底力を見せた一作となった。