本が出るまでは批判されることもあったが…
河合作品に共通しているのは——それは優れたノンフィクション作品と同じように——人間への執着だ。この執着が作品に結実する時、社会に小さな変化が生まれる。
光はダウン症の当事者団体や親たちとどこかでわかりあえると思っていたが、河合の本が出るまでは批判されることもあった。
《実際に本を出すと、ダウン症のお子さんがいる方がオススメ本として紹介してくれました。この本を読むのが怖いと思った人にこそ読んでほしいという書評を書いてくれる人もいました。
雑誌で記事を書いた時には、断片でしか伝えられませんでした。一方、本は全体を伝えることができます。全体を伝えれば、理解が生まれる。これが一番うれしかったことです。
要約しないことで、伝わったわけです。この本はどういう本だとなかなか紹介しにくいと思います。こうすべき、という話も書いていませんし、わかりやすい解決策もありません。
自分の考えを書いている部分もありますが、賛成・反対という立場から書くということは一切していません。
今の世の中は、要約すること、答えを出すことが大事だと思われます。黒でも白でもない「あわい」を描こうとすることで、届く人が増えたんです。
賞をいただけたこともうれしかったのですが(※)、一番うれしかったことは何かと聞かれたら、このようにわかりあえないと思っていた人たちが互いに理解しようとしてくれたことです。これは私だけの思いではなく、光さんの願いでもあったんです。
彼女も本当に喜んでくれました。》
※編集部註:本作は大宅壮一ノンフィクション賞と新潮ドキュメント賞をダブル受賞している。
「死んだなんてずるい。死んでくれたなんて羨ましい」
執着は時に、容赦のない質問としても現れる。光の裁判を知って、「ずるい」と言った女性がいた。彼女は望んだ羊水検査を受けられずにダウン症の子を産んだ。そして「死んだなんてずるい。死んでくれたなんて羨ましい」と言った。河合は「ずるい」という言葉の意味について問うている。なぜ、そこまで踏み込めるのか。
《私には、先入観がなかったんです。
以前から、仕事でどうしてもここだけは聞かないといけない、と思ったら伺ってしまうところはあります。ベースにあるのは、知りたいという思いです。自分でも踏み込んだことを聞いているという自覚はあります。
でも、その場限りで関係が終わっていいというような聞き方はしていないつもりです。本を書く取材なので、一度きりで終わらずに長く付き合っていきたいと思います。》
日々のニュースに追われる新聞や雑誌、テレビの記者なら、その場限りで聞くだけ聞けばいいという「乱暴」な取材をする場面がある。だが、河合はそうではない。