もっと大変な思いをしている人はいると言い聞かせる

私自身も「楽しみにしていたこと」の喪失を少なからず経験している。3月初旬に予定していた東京での「スイス日本経済フォーラム」は、直前に延期せざるを得なかった。主催者の一員として1年前から準備してきて、テーマや内容、パネルディスカッションの登壇者の選定、依頼から打ち合わせまで進めてきていただけに残念だった。

さらに、世界の状況が悪化し、特に欧州がパンデミックの中心地となった3月中旬には、6月にスイスで予定していた、ある日本企業の若手リーダー育成プログラムの延期が決まった。同社が、この非常時にあって当面、そのクライアントやビジネスパートナーを支える使命を全員総力で果たさなければならないからだ。

また、世界中からの参加者を集めたスイスでの2週間のエグゼクティブ研修も、同じ日にあと数日を残して中断となった。翌々日の朝、日本からの参加者の無事の帰国を確認できてほっとした。

すべて、「不可抗力(force majeure)」であり、個人としてどうしようもないことであり、「仕方がない」ことである。その上で主催者や企画者としての私は、延期や中止、帰国のプロセスが滞りなく進められるよう、関係者との連絡、調整、折衝といった作業を重ねていった。仕方がない、こんな思いをしているのは私だけではないのだ、もっと大変な思いをしている人に比べれば贅沢な悩みに過ぎない、と自分に言い聞かせながら。

経済的支援だけで埋め合わせられないもの

現時点で、日本を含む世界各国の政府の対応は、収入が減る、仕事がなくなる、場合によっては事業そのものが成り立たなくなる、といった事象に対する経済的な支援をどうするか、という部分に議論が集中しているようだ。それはそれで極めて大切なことで、今回の件で実際に生活が成り立たなくなる人たちの「喪失」の大きさは考えるだけで強く心が痛むし、最大限の支援がなされることを願っている。

また、何より、感染の拡大で愛する人の命が危険にさらされたり、家族や友人を失ったりという大きな喪失を経験されている人たちが多くいる。こういう人たちを増やさないようにしていくことが最も大事であることは言うまでもない。

ただ、一方、はるかに多くのひとたち(程度の差こそあれ、世界のほとんどのひとたち、といっていいだろう)が今直面している、「これまでの日常」や「楽しみにしていたこと」の喪失の精神的な影響については、十分に語られていないと思う。今後、こういった精神面での相互支援が、社会としてきわめて大切になっていくと思う。

では、どうしたらいいのだろうか。あいにく、私は精神科医でも心理学者でもない。ただ、「喪失」に関しては、私自身も当事者だ。

リアルで人と会って話をする機会が減った。楽しみにしていたプロジェクトが目の前から消えた。仕事の中身は、前向きなプロジェクトの推進や提案から、延期やキャンセルなどに伴う事務処理、契約変更手続き、諸連絡などに変わった。子どもの学校が閉鎖になり、一緒に家にいる時間が増えた。明るく朗らかな子ではあるが、学校という日常を失い、ストレスと無縁ではない。親としてそれにも対応していく必要がある。

そのうち、自分自身の変調に気づいた。メールやメッセンジャーはできるだけ見たくない、出したくない。できれば交流を避けたい。SNSからも離れたい。機械のように目の前のやるべきことをこなしながら、私は言いようのない疲労感に襲われていた。