共同幻想からの自立は、ユートピアではなくディストピアだった

今のインターネットは、いわば“吉本/糸井的なもの”が全面化した世界です。吉本はこの社会を構成する虚構を「共同幻想」と名付け、魂や神、国家など物理的には存在せず幻想としてしか存在しないものを人々が共有することによって、初めて社会は機能するのだと論じた。そして、これからは情報環境が進化し、人々は共同幻想に依存せずに自立できるという未来像を、かなり肯定的に語っていました。

この未来予測は非常に正確だったと思います。そしてその結果、人々は情報環境に支援されてどんどん自己幻想を肥大させていった。いまフェイクニュースを拡散することで己の精神を安定させ、見たいものだけを見て信じたいものだけを信じることで満たされている人たちは、肥大した自己幻想を維持するために、かつて共同幻想を形成していたイデオロギーを消費しているだけだと僕は思います。そして、その結果、民主主義の根幹が揺らいでいる。彼の未来予測は正しかったが、それはユートピアではなくディストピアだったというのが僕の理解です。

——宇野さんは糸井さんについて、80年代に消費という活動を通じて共同幻想からの自立を企てた先駆者として評価しています。その一方で、現在は事実上の通販サイトになってしまった「ほぼ日」の限界も指摘しています。

僕は糸井重里を吉本理論の最大の実践者として高く評価しています。ただ糸井さんのあの天才的な能力をもってしても、なかなかこの自己幻想の肥大した時代に、それをきちんとマネジメントできる主体を育てるのは難しいということだと思います。立ち上げられたばかりの「ほぼ日」はむしろ「モノ(消費社会)」から「コト(情報社会)」を使ってほどよく距離を取る運動だったと思うんですね。それが今は逆になっている。やはりいま、モノの消費や所有の威力は80年代の頃ほど決定的じゃないですからね。

「政治的ではない、という政治性」が機能しなくなった

僕は何度かツイッター上で糸井重里を罵倒する若者を見かけたことがあります。「お前らのような団塊世代がそうやって政治的なものから撤退して、スローフード的な“ていねいな暮らし”に逃げているから、今のような格差社会になったのだ」と。

宇野常寛さん
撮影=プレジデントオンライン編集部

その若者の気持ちもわかりますが、それ以上に問題なのは糸井さんがやってきたあえて表面的には政治的なものに背を向けて見せるという態度、つまり「政治的ではない、という政治性」が完全に裏目に出ていることですよね。一方ではこの30年でバブルの前は政治的ではない「ように振る舞う」ことを知的で倫理的だと思っていた当時の若者達がその政治的なものへの免疫のなさから、どんどんイデオロギーを問わず陰謀論者やヘイトスピーカーになっていった。しんどいな、と正直思います。

だからこそ、僕は“吉本/糸井的なもの”を批判的に越えていかなくてはいけないと思う。それは糸井さんたちの世代の仕事ではなく、僕らのような現役世代の仕事です。だから僕はポジティブな意味で、「ほぼ日」的なものの批判的な継承が必要だと考えます。具体的には半径5メートルの世界に閉塞しない、かといって天下国家を語ることで小さな自分をごまかさない。この距離感を、政治的な態度表明やコミュニティを引き受けることに背を向けないかたちで実現していきたいです。