キヤノンは最下位という市場環境

当時の米国市場は、コダック社の安価なカメラが圧倒的なシェアを占めていました。高価なカメラを買うのは、一握りのプロやカメラ愛好家だけ。当時はコダックも含めたメーカーが群雄割拠していましたが、キヤノンは最下位という市場環境でした。

私は現地で経理を担当していましたが、時間があったので自ら手を挙げ、カナダへたびたび出張して電卓を売ってまわりました。一方で、経理の知識を深めようと、米国の一流企業の株をいくつか買い、財務諸表を研究しました。米国流の経営はどんなものかと学んでいったのです。

日本国内ではトップ争いを繰り広げていた時期に、米国市場での知名度は相変わらず最下位クラス。販路であるカメラ専門店は、競合他社たちに押さえられていました。

転換点となったのは、76年発売の「AE-1」です。当時でいう“マイコン”を搭載した画期的なカメラでした。コンピュータがシャッタースピードとレンズの絞りを決めてくれるので、撮影者はピントを合わせるだけ。誰でもセミプロ並みの写真が撮れるうえ、値段は中級クラスだったのです。

私はこの「AE-1」で一気に米国のトップに立とうと考えました。専門店の販路が使えなかったので、消費者に直接アピールしようとカメラではじめてテレビCMを打ったのです。スポーツとの組み合わせがいいと、大人気だったテニスプレーヤーのジョン・ニューカムを起用。当時業界では「ミタライはクレイジーだ」と言われたものです。それまで一眼レフカメラは、テレビでCMを打つような大衆向け製品ではなかったのです。

しかしこれが大当たりし、一般消費者が「AE-1」を求めてカメラ販売店に押し寄せた。それまで一眼レフの市場は年間60万台だったのが、「AE-1」だけで累計100万台以上が売れました。米国市場でトップに立ち、私は79年にキヤノンUSAの社長になることができました。84年のロサンゼルス五輪で、キヤノンがカメラのオフィシャルスポンサーの権利を獲得したことや、それに伴い「New F-1」が公式カメラになったことも大きな出来事でした。大企業の仲間入りとなる売上高10億ドルに到達したのもこの年です。

13人でスタートしたキヤノンUSAは、私が駐在していた23年間で6400人の大所帯にまで成長しました。組織が拡大する過程で、会社に対する価値観の壁に何度もぶつかりました。